じゃがめブログ

毒にはなるが薬にはならない、じゃがいもの芽のようなことだけを書き綴るブログです。

いいともロー

 『笑っていいとも』のオープニング曲、最近はタモさん歌ってないようですけど、ちゃんと歌詞があるんですよね。あれ聴くといつも気になる。

 最後の方に「今日がだめでもいいともロー きっと明日はいいともロー」ってフレーズがあるんです。『いいとも』と『Tomorrow』を掛けてるんだと思うんですけど。あそこで「いやいや! 番組始まる前から明日の話すな! 番組の存在感オイ!」ってなるんですよ。

 みんなならないのかな〜。妙に気になるし、曲を聴くたびに思い出す。なぜか気になる、あのフレーズ。

自称ツッコミはスルーするのが良いのでは、の話

オードリー・若林「評論家きどりばかりのツイッター」 | 世界は数字で出来ている

 会話に関して言えば、ツッコミに回りたがるというのは、関東の風習な気がしています*1。私が上京して一番最初に受けた会話の洗礼は「おっ、関西から来たの? ボケてみてよ、おれが面白く突っ込んでやるから」というスタンスの振り方とツッコミでしたので。残念がらそれが面白かったことは一回もなかったんですが。

 なぜそうなるかと推測するに、ボケが「自分を落とす」のに対してツッコミが「その場を動かない」というのが一般的な認識になってるからなんじゃあないかと思い至りました。ボケが自分を落としたり敢えて間違ったことを言い、ツッコミがそれを正しく戻す。だからツッコミは自分を落す必要がなく、相対的に上がる。また正しいことを言えばいいだけなので技量も必要がない。そういう認識。簡単そうにみえるんですよね。だから手軽にやろうとする。

 ではツッコミってそうなのかというと、そうではない。一番ベタなツッコミの役割は、ボケ(現象の誤り・違和感)に的確に気付いて、解りやすい形で見聴きしている人に伝えることです。ボケが生み出した違和感、異常事態をスパーンと埋めることで見聞きしている人の中に快感を作られるわけです。言ってしまえば同時通訳みたいなもので、ボケの世界観を観てる人に翻訳して伝えるという仕事をしている。「間違いを指摘する」こととイコールではありません*2

 このような笑いが生まれる理屈については、桂枝雀さんが興味深いことを語っておられます。もちろん、枝雀さんの語られることの方が圧倒的に理に適っていて面白いものですが、もし興味があれば読んでみて下さい。
 らくごDE枝雀 (ちくま文庫)

 閑話休題。このようなツッコミに関する妙な認識が生まれたのは、漫才の表面的な浸透によるような気がします。こと、お笑いに関しては*3。割りと大きな風潮なので、そう簡単に変わることもないだろうなあ、という印象です。


 この元エントリーで述べられている「ツッコミ」には、単に「誤りを指摘したがる」というのも含まれているのですが、どちらに関しても、自分を落とさず他人を落として優位性を演出するゲームをやってるというだけです。そういう人達は日常生活の中にも出てきますし、はてブ開けば一山いくらで居ますので、Twitterに限ったことでもないと思います。
 本来であればそんなゲームに付き合う必要もないのですが、有名人になればなるほどどんどん顕在化していくというのも確かでしょう。ことサブカルに関して言えば、自分の優位性を保つために知識自慢をする人が多くて、更にそういう人は演者(役者・芸人・歌手など)にも同じ振る舞いをするんですね。よって、今後は積極的なスルーをしていくというのが精神衛生上良いのでは、などと思いましたが、いかがでしょうか。

*1:いや、関東と関西(大阪・兵庫)以外で生活したことがないので、関東以外でもそうだよ、という意見もあるかも知れないんですが。

*2:TV番組『小杉&後藤のなんでやねん×なんでやねん』をご覧になった方は、番組中で狩野英孝さんが見せた漫才におけるツッコミがこの「間違いを指摘する」だけだったことにお気づきになったかも知れません。じゃあそれも笑いになるじゃないかという意見もあるかも知れませんが、あの漫才はフット後藤の「何がおもろいねん」で初めて笑いになったものなので、一般会話でそれはちょっと難しいと思います。

*3:余談ですけど、エンタ芸のような「誰でも真似できるフレーズ」が受けるのも、手軽に会話の中に入れられるからでしょうね。

不寛容になっている人に不寛容になるなと言っても意味が無いのではないか、という話

 以前のエントリーの中で、『どうしようもないことをどうにかしようと悩まないこと』と書いたことがあります。→新社会人に贈る、『うつ』にならないための心得十箇条 - じゃがめブログ

 世の中の物事を「自然的・人為的」という軸と「局所的・広範囲」という軸の表にマッピングすると、こんな感じになります。局所的というのは、個人的と読み替えてもらってもいいです。ざっくりですが、雰囲気は伝わるでしょうか。

 I・IIの領域は基本どうしようもないことばかりです。自分自身なら律せると思われがちですが、自分自身のことであっても自然的なものはコントロールするのは実に難しいものです。
 IVに関してはグレーゾーンではあります。他人に干渉することは可能でしょうが、思い通りに操るまでは殆どの人が不可能でしょう。できることと言えば、自分の意志や「こうあって欲しい」を投げかけて、他人の「自由選択による行動」を促すことくらいです。なぜなら、他人もまた自分と同じように周囲をコントロールしようとしているからです。そのコントロール権を奪い合おうとする間に挟まるものがルールであったりマナーであったりするわけです*1

 こう考えていくと、人間がどうにかできること、コントロールできる範囲はIIIの領域の「自由選択に依る行動」に留まることになります。ここに注力して、それ以外は気に病まないようにしよう、というのが弊エントリーの主張でした。コントロールできないことをコントロールしようとすると、物凄いエネルギーを消耗します。理想と現実のギャップに精神的にも消耗します。人によっては理想と現実のギャップを埋めるために帳尻を合わせるように、なんとかコントロールしようとしてエネルギー消費をしてしまうものですからね。そして、この「コントロールできる範囲」は大概の人が考えている「コントロールできる範囲」よりも、恐らく大幅に少ない。

 この「コントロールできる範囲」を必要以上に大きく見積もると、人は不寛容になっていきます。自分にコントロールできる範囲で自分にとって不利益なことがあったとしても、その不利益は受け入れがたいものですから。しかし残念なことに、実際にはコントロールできる範囲は実に狭い。ということは、不寛容な人は、常にエネルギーを無駄に消費し精神を疲弊させているのではないでしょうか。


 再生JALの心意気/さかもと未明(漫画家) (PHP Biz Online 衆知(Voice)) - Yahoo!ニュース

 この記事を読んで感じたのは、さかもと未明さんの言動(着陸時の歩行・飛び降りる発言・乳児を連れた母親に対する暴言・JALへのクレーム・マナーの押し付け・文章の論理性の無さ)は確かに批判されても仕方ないものではあるのですが、だからといってこの人を即悪にしてしまうのはちょっとやりすぎなんじゃあないか、ということでした。
 この人、かなりの不寛容ですが、自分というものを維持するためにコントロールできる場所を大きく見積もりすぎてギリギリのテンションなんじゃあないかなあ、と。
 そう考えると、無碍に「実際に飛び降りればよかったのに」とかはなかなか言えることではないし、「不寛容になるなよ」とか「本来なら母親と子供を受け入れるべき」と言ってもあんまり通じないのではないのかなあ、などと思うのですが、みなさんいかがでしょうか。冬も深くなって参りましたが、お体はよろしいでしょうか。

 取り留めもない雑文になってしまいましたが、本日のところはこの辺で。

*1:ルールを変えようというアクションをとることはできますが、それもまた難しいでしょう。人が複数名存在したら、その間にはコントロール権の奪い合いが始まります。場をコントロールする力を得たものが場を支配し、コントロールを失った人は場に委ねるしかなくなる。そういう衝突を繰り返した結果、衝突が最小限になりつつ相互的にうまいこといくようにバランスをとるために積み上がってきたのがマナーでありルールですから。

「簡単に文章力を身に付ける方法」など存在しない

 弊ブログでも文章に関するエントリーは何本か書いています。
 推敲・校正時に気をつけると読みやすくなるかも知れない、本当に細かいこと - じゃがめブログ
 長すぎて読みづらい文章を推敲・校正する時に気をつけること - じゃがめブログ
 しかし「文章に関する小技」はあっても「簡単に文章力を身に付ける方法」はないです*1

 なぜか。理由は簡単。文章力≒思考力だから。思考力を簡単に上げる方法がないのに文章力を簡単に身に付ける方法が存在するというのは理屈としておかしいからです。


 文章の読みやすさは、書いた人の思考が整理されているかどうかで決まります。文章力とは思考の写しでしかありません。文章力を身に付けるなら思考力を身に付ける必要があります。

 思考力を身に付けるのにネットに転がっている思考フレームワークを幾つか摘むのも悪くはないですが、それよりしっかり基礎を学んでおいたほうが後々楽になります。そこで本を1冊お勧めしておきたい。私が読んだ中でも有効だったのが、バーバラ・ミント氏の『考える技術・書く技術―問題解決力を伸ばすピラミッド原則』という本です。ビジネス文書関連の書籍でもド定番ですので、ご存じの方も多いでしょう。

考える技術・書く技術―問題解決力を伸ばすピラミッド原則
バーバラ ミント グロービスマネジメントインスティテュート
ダイヤモンド社
売り上げランキング: 1341

 本書籍に書かれている内容を得て、思考から整理して文章に反映していくというステップがお勧めです。

 ちなみに、はてなブックマークで上位に出てくるような2chまとめなどを幾ら読んでもあまり意味は無いです。まとめてる人の頭がまとまってないので有効な情報や思考法が全然載っておらず、小技の書いてあるっぽいレスを抽出しているだけだからです*2。『文章を短くする』『主語述語を明確に』『重複した表現は省く』などなど細かいライフハックまとめもあるでしょうけれど、それは文章力云々ではなく、まともに読める日本語の書き方です。


 小技やショートカットで楽して得ようとせずに、地味に地道に思考から積み上げていけば、文章力は誰にでも身に付くものです。ある程度の気長さを持って事にあたるなら良い結果が出るのではないでしょうか。

*1:この場合の文章力とはなんぞやという話もありますが、だいたいの文脈において「読みやすい」「説得力がある」だと思います。「読ませる文章を書く」などもあると思いますが、読み応えを作りこむ能力を求めてライフハック漁りしている人ってあんまり居ないでしょう。

*2:それが全部間違ってるというわけでもないのですが。

子供に「いじめからは逃げろ」って、どこへ?

いじめをなくすことはできない

 まず前提として、いじめは社会から無くすことができず、いじめの環からは誰も逃れることができない、と言うことを述べておきたいと思います。
 世の中で一般に俎上に上がる『いじめ』とは、集団の中で殴る蹴るなどの攻撃や罵詈雑言・違法行為・違法行為を含む嫌悪感を感じる行為の強制などが発生したもの、つまりは加害者と被害者が明確に存在する集団攻撃のことを指しています。ですが、実際は『明確な加害者』が存在しないこともある。むしろその方が多いでしょう。例えば集団で無視する。例えば集団で個人を当人の望まない形で『いじる』などなど。つまり『いじめ』を広義に捉えると、その場での全体空気によって個人が潰される環境、と言えます。その場に暴力があるか、違法行為があるかはまた別の話です。
 ではその集団空気をなくせるかというと、なくせないでしょう。なぜなら、人は誰しも意図せずして加害者にも被害者にもなりうるからです。自分にとっては些細ないことでも、大きく捉える他人は存在します。であるにも関わらず大抵は傷つける当人はそのことに気付きません。気付いていても、その傷が人にどれくらいのダメージを与えているかは計り知れない。すべて解っていても、別の場所からのストレスを晴らすためにやめられないこともある。よって、加害者にはいつでも誰でもなりうる。その小さな積み重ねが個人を追い込むところまで高まれば、それがいじめとなるのです。人間関係が少しずつ歪んで、生まれた歪のエネルギーが最も掛かる部分に偶然立っていれば、それだけでいじめの被害者が生まれます。なくすことができるでしょうか?

 覚えがないでしょうか。「あの時あんなことを言わなければ、あの人を悲しませることもなかっただろう」という後悔を。みな、そういう後悔するようなことを、自分で気付かないうちに、当時は気付いていたが今は忘れてしまったことの中に大量に抱えているはずです。それがお互いに傷つけあってときにエネルギーになって社会は動いています。まず無くすことができないことなのです。

子供にとっての逃げ場所とは

 さて、ここから本題です。最近、新聞の社説やコラム、ブログエントリーで「いじめから逃げろ」という論が目立ちます。いじめで子供が何名か亡くなった事件以来、顕著です。それに対して私が思うのは、「じゃあどこに逃げたらいいの?」ということなんです。
 いじめと言うのは、前述した通り「集団空気」です。その空気の中で逃げ場を失ったことで追い詰められ、場合によっては死に到ろうとする。そもそも、逃げ場がないからいじめがより悪化するんです。
 小学生や中学生にとっては、世界は「学校」と「家庭」がほとんどです。活発な子であれば地域の運動サークルや塾などもあるでしょうが、そうでない子供も多いでしょう。つまり、学校で追い詰められて家でも追い詰められたら、どこにも逃げ場がなくなってしまう。追い詰められ、逃げ場を失った圧で、やがて潰れてしまうのです。

 では、どこが逃げ場になるべきなのでしょう? 私は、まずは家庭だと考えています。学校の中に逃げ場を求めることはとても難しく、手を入れることも難しい。家庭の誰かが、必ず自分を受け入れてくれるというセーフティネットになり、そして、子供に「いつでも逃げ込んで大丈夫なんだよ」ということを心で理解させる。外で幾ら遊んでグチャグチャになっても構わない、傷だらけになっても構わない、ちゃんと帰ってきてくれよ、と。そうすれば、子供も逃げこむことができるかも知れません。そういう環境作りなら可能ではないでしょうか。

家庭を子供にとっての逃げ場にするために

 まず「必ず受け入れる」という姿勢を見せなければなりません。常に甘やかしたりだとか、子供が間違っていても許すということではありませんし、躾の放棄でもありません。時に子供に叱る必要もあるでしょう。その場合、父親が叱れば母親がフォローする。母親が叱れば父親がフォローする。祖父母が常に受け入れる。そういうフォローの関係を持つことです。
 「あの人が怒っているから」などと、叱りの根拠を外部に出しても良くないでしょう。叱りの根拠を外部に出してしまうと、子供からは「この人は自分の意見ではなく他人に左右されて怒る」と見えます。そういう人が信頼できるでしょうか? 社会的におかしなことだとしても、それは「人として誤っている」とするべきです。
 そして、人格の否定はしないことです。人格ではなく、行為の否定をすること。人格を否定する人に、いざというときには頼れないでしょう。

 大事なのは、子供との信頼関係づくりだと思います。学校という社会で居場所を作るために最大限頑張り、それでもどうしようもなくなったら頼れる場所がある。そう子供に感じさせることが必要なのではないでしょうか。

総じて

 病気をこの世から無くすことが不可能なように、社会の病理であるいじめをなくすこともまた不可能でしょう。私たちにできることは、社会を健全にして軽減して早期発見すること*1、そして最悪にも子供がいじめに合っていても逃げ場所を作ること。この両面が必要なのではないでしょうか。
 子供たちに逃げることを促すことも大事です。それと同じくらい、受け入れる側に逃げ場所を作ってあげるように訴えることも必要なのではないかと考え、キーを叩きました。

関連エントリー

 社会人になってから潰されてしまわないようにするためのエントリーを、以前に書いています。手前味噌ですが、紹介させて頂きます。
 新社会人に贈る、『うつ』にならないための心得十箇条 - じゃがめブログ
 ここでも、本エントリーと同様に逃げることを推奨しています。そのために、仕事外の友人をできるだけつくることであったり、世界を広げて目の前のものに潰されないようにする考え方の工夫を書きました。
 何かの一助になれば幸いです。

*1:いじめの中でも積極的攻撃をする子供は居ます。暴行や犯罪の強制など。こういったことを早期に発見して対応するという体制を作ることは必要ですし、取り組むべき課題だと思います。そもそも、犯罪ですからね。それは無くすべきですし、取り組んでおられる方には頭が下がります。

ファストフードの店員を侮辱している人について

 ここに挙がってるような発言をする人は極々一部なのだとは思いますし、槍玉に挙げて正義と優越感に浸るのもバカらしい話ではありますが。
 マックフライポテト60個の件に群がるクレーマーたち - Togetter

対価を払っているから店内で何をしても良いとする考え方

 何が良いのかまったく解からない。
 ポテト料金を払ったからということですが、払ったほうが自由にできるのは買ったポテトに対してのみで、場所自体を専有していいかどうかは店側の厚意に依るものではないのですか?
 スタバなんかはコーヒーの相場に対して値段が高いですが、あれはカフェの空間と雰囲気を買っているのでしょう。ではマクドナルドのポテトは? ポテトの料金に場所代って入ってると思います? そうは思えないくらい安いから大量買いをしたりしてるんでしょう?

 買ったものだから食べようが粗末にしようが自由というのは、観てる人にとっては理屈を越えた話なので、理屈で返す言葉はないです。ただ人間が感情で動いてるということを無視できるって怖いな、と思います。

ファーストフードの店員『ごとき』という考え方

 何を言いたいのかまったく解らない。
 ファストフードの店員は、時給に対して労働力を提供しているだけ。それが1時間で600円か800円かは知りませんけれど。その事自体が店員の人間としての格にどうこうするものではありません。店員の、社会に接する一側面でしか無い。店員も個々色々ありますから、それぞれ行為で対外的に評価されるべきで、『ファストフードの店員だから』という理由で侮辱されるというのは、まったくおかしな話です。

 ファストフードの店員から提供されるサービス自体は、その時給なりになります。当たり前ですよね、時給とサービスはどこかで釣り合うようになっています。時給が上がれば人も集まり、良いサービスをする人を残して入れ替えていくことが可能ですからね。だから、もし『ごとき』がつくとしたら「店員に十分な時給を払っていないファストフードのサービスごときに」であれば、まだちょっと解る*1。ではファストフードのサービスに「ごとき」が着くのはなぜかというと、顧客がサービスに見合うだけのお金を払っていないからです。

 店員のサービスの質を上げるための賃金となるサービス料を払っていないんだから、サービスが『ごとき』でも文句言えないよ、ってことです。

 これがどこでどうネジ曲がったか、ファストフードで働く店員のほうを見下す結果になっている。それっておかしくないですか?

売る前に想定できたことだという考え方

 少し本筋とズレますが、不思議な話だったのでピックアップしておきます。
 想定できたから対策できないのは店側が悪いって、では小売店に強盗が入って人が死んだとして、「物売ってるんだから強盗が入る可能性は想定できたのだから店の対応が悪い」って言うんですか?
 想定できることに対しては対策を取るほうがいいとは思いますが、顧客として斜め上のアホがやってくるのをどこまで想定するかというのはとても難しい問題ですよ。アホの方向性が離散すればするほど、想定して対応するためのコストも爆発的に増えていく。

 ではそのコストは誰が払うのでしょう。バイト店員ですか? 違うでしょう。
 「想定することもできる問題なのだから対応しない店員が悪い」というのは、ちょっと飛躍し過ぎているんじゃあないでしょうか。

 閑話休題

総じて

 これらのようなことは、ファストフードだけではなく、例えば安い居酒屋のチェーンなどでも言えます。とても安い居酒屋で飲んでてサービスに不満を漏らすっておかしいでしょう。だったらとっとと六本木のクラブに行けばいいんです。1時間1万円も払えばそれなりにもてなしてくれますよ。

 もし安い外食であなたがもてなされていないと嘆くなら、それは店員が悪いからではなく、あなたが安さに惹かれて店に来てるからです。


 サービスを受けたければサービスに見合っただけの金額を払わなければなりません。物の代金を支払ったからサービスを受ける資格があるとするのはとても卑しいです。逆に考えてもみてくださいよ、自分に対して適正な対価を支払わない人にサービスをしますか?

 このような、自分は対価を払いたくないがサービスを受けたいという考え方が巡り巡ってしわ寄せして、いわゆるブラック企業のような「働いても適正な対価をもらえない」みたいな環境を生むのかも知れないな、などと漠然と思いましたが、みなさんいかがお過ごしでしょうか。


*1:実際、どれくらいの時給でどういうモチベーションなのかは私は解らないので同意はできないですが

センスについて最近思うこと

 物事の善し悪しについて『センス』という言葉で表現すると、どうやら思考停止しているようであったり漠然としていて虚であるかのような印象があるようです。『センス』という言葉が「感覚的な才能」といった印象を与えるからでしょうか。

 じゃあこのセンスってなんだろうな、と考えてみるんですが。

 最近思うのは、『センス』と大雑把に呼ばれているものは「全体を把握する視野」「根本となる問題を見つけようとする視点の動き」「問題がなぜ問題たるか理解する知識」という3点の複合なのではないか、ということです。

 このうち、視野と視点の動きに関しては、どんなジャンルにおいても同じもので、これは普段からの物の見方の問題です。ここは感覚に近い。そこに、問題を理解する知識が合わさって、一般に言われる『センスがいい』ということになる。どんなときでも当てはまるかと言われるとちょっと断言はできないですが、少なくとも仕事上はそう。娯楽でも、そうかな。

 単純に言うと、取り組んでいる物事をざっくり把握して力の入れどころと抜きどころを見抜ける人、というとしっくりくるでしょうか。

 便利な言葉なので『センス』と使ってしまうんですけど、その意味ってこんなことなんじゃあないかな、などと思うのですが、みなさんいかがお過ごしでしょうか。