じゃがめブログ

毒にはなるが薬にはならない、じゃがいもの芽のようなことだけを書き綴るブログです。

許すという自衛

自分の常識感や価値観と照らして異常だと思う人に出くわしたとき「なんなんこいつ? なんでそんなことするの? 言うの?」とは誰しも思うものです。高まる苛つき、募る怒り。なんかイラッとしますよね。理解できないからこそまたイラッとする。

が、冷静になって考えたら「そんなことをする」にも何かしら由来が見えるんじゃあないでしょうか。

例えば、「○○のくせに発言するな」という人の考えの背景には「自分が○○だから発言していない」があるもの。「ブスのくせに」は自分が醜いことで発言力がない時代を過ごしたと思っているのかも知れません。「若いくせに」は年寄りに年齢差で押し切られてきたのかも知れません。

例えば、不満があった時に大きな声でがなり立てる人は、大きな声でがなり立てることでしか要求を通せなかった人なのかも知れません。もしかしたら、周りの人が彼に耳を傾けなかったんじゃあないのでしょうか。


私は上記のように接してくる人に「あいつはなんなんだ」と怒りを抱えてしまうのですが、怒りを自分の中に持ち続けていると、自分の心に負担になってくるのが解ります。怒りを抱えることで「相手に対してネガティブに考えている自分」を否応なく見つめることになる。復讐しようだとか、ギャフンと言わせたいだとか、一矢報いたいだとか、言い返したいだとか、実に重たい。

他人に怒る心は自分自身にとっても負担になるわけです。持ち続けているのはかなりしんどい。だから、まったく的外れとしても「じゃあ仕方ないよね」と許せる点を見つけて、怒りを多少なりともふわっと軽くしてみてはどうか、と。そうすればもっと他のことに思考を使えるし、精神を摩耗しなくて済む。人を許すというのは自衛なんです。

もちろん、許せる点があるからといって怒りがさっぱりなくなるわけではないし、自分が正しいと思うことに添ってなければ許せないでしょうから、どうしても割り切れないものが出てくるでしょう。それでも、怒りで目が眩んでしまうよりは遥かに気持ちが楽なんじゃあないでしょうか。