サイン
あれさぁ、と彼女が僕の脇腹を指で啄き目配せした先で、酔っ払いのサラリーマンが車内に乗り込んできた。どやどやと大声を張り上げ、会社の不満やお互いの結束の強さについて再確認をしている。何度も大声で同じことを繰り返すさまは、まるで壊れたレコードプレイヤーのよう。彼らは、何故か席に座らず吊革にぶら下がり、風鈴のように電車の揺れに合わせてふらふらと揺れていた。我が物顔だよね、と彼女が言う。彼女の眉間には少し皺が寄っていた。
終電近いこの電車は中心市街地を離れて、郊外の闇の中を滑るように走っている。都市の景色を見慣れていると天地が逆になったかのような錯覚を覚える程、空に星の光が満ちて暗い地上を照らしている。車内は人影まばらで、学生が一人と老人が一人、僕達と酔っ払い達しか乗っていない。その状況もあってか、酔っ払いたちの声が次第に大きくなっていく。
ああ言うのってさ、と彼女がボソリと囁く。腹が立たない? と。いや、別に、と僕が言うと、彼女はうーんと唸った。お酒飲むのは良いと思うんだけど、公共の場でああいう振る舞いっていうのはどうかと思うの。そう言うと彼女は口を横一文字に結んだ。
そうかな。確かに迷惑だね。まあでも酔っ払いだったらあんなもんじゃないかな。みんな会社とかご家庭で大声を出したくても出せなくて、お酒の力を借りて声を出してるんだろうし。それ自体は別に悪いことでもなんでもない。
僕がそう言うと、彼女は酔っぱらいから視線を僕に戻して、尋ねてきた。そう言えばさ、君って怒らないよね。怒ったところ見たことないんだけど。そう言えばこの前、ケーキを勝手に食べちゃった時も平然としてたよね。っていうか超無表情だし。ねぇ、腹が立ったりすることはないの?
僕は、あぁ、と頷く。そりゃ、腹が立つことはあるし、イライラすることもあるよ。でも酔っ払いに怒っても仕方ないじゃないの。
ううん、と逡巡する。あのさ、怒りって言うのは、高まった恐怖とかのストレスから逃げるための捌け口だったりするんだよ。で、恐怖っていうのは自分や、自分が大事にしていることに対して危害が及んだり、及ぶかも知れない時に起こる。例えば、誰かが自分に危害を加えてくるかも知れないっていう恐怖が、その人に対しての怒りとして捌けられたりする。でもさ、彼らは別に大きな声を出してるだけだから、それだけだったらなんでもないことじゃない? 別に誰かが傷つくわけでもなしさ。
彼女は、ええー、と小声で囁き、驚きの表情を浮かべた。じゃあなに、別に危害はないから怒らないってこと? 言ってることややこしくて、なんかよく解らないんだけど、と彼女は言う。じゃあ、私は何に対して恐怖してるの?
それは、多分だけど、場の空気とか規律とかそういったものが壊れることじゃないかなあ。君、意外に真面目だからそういうのが気になっちゃうんだよ。僕がそう言うと、意外っていうのがなんか気になるけど、と彼女は笑った。じゃあ、君は気にならないの? そっちの方が意外なんだけど。
どうかな、僕は結構、色んなことに無関心だよ。大事なこと以外は結構どうでも良いと思ってるし。それに、本当に大事なことなんてそんなにたくさんは無い。僕がそう言うと、へぇ、と彼女は言った。クールすぎるんじゃないですか、と。じゃあ、大事なことを傷つけられそうになったら、やっぱり怒るの?
さあ、どうだろうな、あんまり怒ったことが無いから解らないなあ。あ、僕が怒ると、左の口角が上がる癖があるらしいよ。そういうサインなのかな。それくらいしか変わらないんだって。怒ってる時は鏡なんか見ないから、本当かどうかは解らないんだけど。そう言って、左の口角を指でクイと押し上げて見せる。それを観て、彼女は笑う。
電車は僕たちが降りる駅の直前で、大きなカーブに差し掛かった。緩やかに速度を落としながら、大きく僕らを揺らしながら駅へと進入して行く。その大きな揺れに合わせてさっきの酔っ払いの鞄が彼女に目掛けて飛んできた。吊革を掴んでオランウータンのように遊んでいたのだろう、その勢いと揺れの勢いが重なってか、見事な放物線を描いて。危ない、と思うより先に体が動いて、鞄を叩き落す。見た目より遙かに重い鞄は僕の両腕を打ち付けた後、無機質な音を立てて地面を転がった。
大丈夫? と聴くと、彼女は胸の、心臓の辺りを抑えながら、大丈夫、と答えた。どこにもぶつかってないことを確認して、ホッと胸を撫で下ろす。息を深くついていると、後ろから騒ぐ声が聴こえてきた。
酔っぱらい達が大騒ぎしている。どうやら鞄の中には会社のノートパソコンが入っていたらしく、電源が入らないだとか大事なデータが消えたかも知れないだとか、そういった事で騒いでいた。流石にそれはないんじゃないですか? 女性に怪我させるかも知れないところだったんですよ、と一言添えようとしたところで、酔っ払いが僕と彼女を指さして大声を出した。
あんたが受け止めれば良かったじゃねぇか!
彼女は怯えた様子で僕の影に隠れている。酔っぱらいの方は今にも暴れだしそうな勢い。いやいや、酔っぱらいさん、それはないでしょう。あなたが勝手にオランウータンごっこをして、鞄とバナナと間違えて放り投げて、人間であるこちらはそれが危険だと思ったから叩き落としたんです。むしろ謝られても良いくらいの出来事ですし、気をつけてください。
そう、言おうとしたんだと思う。だけどそういった言葉は全部どこかに消し飛んで、次の瞬間、僕は一歩踏み込んで右手を塊にして振りかざしていた。その後、重たい何かで顔に受けた衝撃と、彼女が、あっ、と言う声を最後に車内は暗転した。
寒さで目が覚めた。眼をうっすら開けると、灰色の壁が見える。よく観るとそれは剥き出しの鉄板で、更によく見るとそれはいつもの駅の屋根で、要するに僕は駅で寝ていたらしい。真上の方向に視線を移すと、彼女が携帯を操作していた。あ、気付いた、と彼女が真上から覗き込んでくる。
彼女曰く、急に僕が怒りだして酔っぱらいに突っかかっていって、殴りかかろうとしたところで別の酔っぱらいに鞄で殴られて一発ノックアウト。酔っ払いはそのまま電車に乗って先の駅に揺られていき、僕は同じ車両に乗っていた学生に駅で担いで降ろしてもらって今に至る、とのことだった。
あ、そうなの? いやあ、参ったね。そう言うと、彼女は過剰なアクションを交えながら話す。いやいや、ほんとビックリした。こんな風になっちゃうのかーって、ちょっと笑っちゃったよ。カラカラと笑う。
え、僕が脳震盪を起こして倒れてる間に笑ってたの。それちょっと酷いんじゃないの。そう言うと、彼女は軽く、いやいやゴメンゴメン、と言う。嬉しくて。君が殴りかかるとき、口角がバッチリ上がってたからね。あっ、て。私の為に怒ってくれてるんだー、私大事だと思われてるんだなーって。そう思ったら、嬉しくて。
いやいや、僕にも社会規範と正義を愛する心があったんだよ。それがさっき急に目覚めたってわけ。
サインを見られていたのがまるで見透かされているようで、それが妙に気恥ずかしくて、とんちんかんなことを言ってしまう。
えぇー、ほんとに? と彼女が顔を覗き込んで来る。仰向けで椅子に寝る僕と彼女は見つめ合った。無言のまま数秒、十数秒と時間が過ぎていく。
……うーん、やっぱり解んない、君、無表情過ぎて全然解んない。ま、いいけど。と彼女が視線を外す。ふっと一息ついた。緊張のサインも教えてたら、また見透かされるところだった。
上がった体温と心拍数を、夏の夜風が冷ましていく。僕はそのまま、もう一度、眼瞼を閉じた。
via No Border : サイン