じゃがめブログ

毒にはなるが薬にはならない、じゃがいもの芽のようなことだけを書き綴るブログです。

批判するときに意識してること

はじめに

 私自身はあまり批判をするということはなく、主張として「私はこんなこと思うんですが、どうでっしゃろかいな〜」というスタンスを取ることが多いです。それでもたまに批判をしたくなることや、主張をすることが批判の形式をとることもあります。

 そこで、批判が意味を持ったものになるように、私が意識していることをまとめてみました。メモ的に残します。ちなみに、前提として「論理的であること」というのがありますが、それは批判に限らずの話なので割愛します。

批判のガイドライン

何を目的としておこなうか?
評価対象は何か?
評価対象に人格は入らないか?
自分の言いたいことを言うためだけに都合よく相手の論を抜粋していないか?
不必要に強い言葉を使ってないか?
余計な一言がないか?
今、空腹か睡眠不足ではないか?

何を目的としておこなうか?

 自分が発表しようとしている批評は、どういう目的で書かれたものか。
 批評を書く目的を『意図した読者』で分けると『批評元の作品・人物』『批評元の作者以外』の2通りになります。
 相手に意見を伝えるためか、意見を他者に展開するためのものか。そのどちらでもない場合は、単なる罵倒であったりすることが多いので、その時点で書くのを辞めること。

評価対象は何か?

 対象となるのは『論の前提』『論理展開』『知識』『結論』のどれか。
 どの部分で自分と齟齬があって異論を持つのかを決めておくことで、論が明確になる。

評価対象に人格は入らないか?

 人格攻撃しても誰も得しない。
 『自分がスッとして溜飲を下げること』が目的なのか、よく考えること。

自分の言いたいことを言うためだけに都合よく相手の論を抜粋していないか?

 長い文章の一部だけを抜粋し、都合よく解釈していないか。
 インターネットでの素人言論場(しゃべり場的な)ではtumblrやmatome navor、togetterなどの利用が盛んになることでスクラッピング文化ができつつある。その中で「都合の良い論」だけを使っていないか。ともすれば、昨今忌み嫌われるマスメディアの捏造と同じような行動になっていないか。

不必要に強い言葉を使ってないか?

 『強い言葉』とは、罵詈雑言の類や敬意のない単語、慇懃無礼な言葉。『バカ』『アホ』『クズ』など。最近では『マスゴミ』などもそう。印象が強い言葉は論よりも目立ってしまい、論を読者に届けない。
 そもそも、『強い言葉』を使ったとしても、論の正当性は担保されない。『強い言葉』を使うことで生まれるのは、自分の中の感情をより強く表現するということでしかなく、批判には適さない。

余計な一言がないか?

 批判に必要な情報以外に言葉を足していないか。
 「だからお前はアホなのだ」などを足すことで、感情の問題になってしまう。感情の問題になってしまうとそこから感情の叩きつけあいになる。実に非生産的で非効率なので避ける。

今、空腹か睡眠不足ではないか?

 生存欲求が満たされていないと、満たされているときに比べて精神的に不安定になり感情がネガティブに振れることが多い。感情がネガティブな方向に触れた状態で批判をしようとしても、感情が論に余計な色をつける。金持ち喧嘩せずとはいうが、一旦自分を満たした状態にすることで喧嘩ではなく批判になるように意識すること。

まとめ

 批判はどうしても否定が入るものです。否定というのは、それが正論であっても(正論のほうが)言われたほうが嬉しくないものです。嬉しくない感情の状態で双方にとって、または批判された方にとっていい落とし所を見つけるというのは非常に難しい。よって、批判をする時は意識的に慎重に、なるべく感情を昂ぶらせ逆撫でしないように意識しなければならない、と私は考えています。

 みなさんはどうでしょう?

純粋理性批判〈1〉 (光文社古典新訳文庫)

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