おばあちゃんのテレビと小鉢の塩辛
「君って、初対面の人が居ると全然しゃべらないよねえ」と彼女は言った。ああ、人見知りするんだよ、と僕は返す。
周囲の喧騒で少し声を張り上げないと聴こえない。これぞ安居酒屋といった風情なのでムードもあったもんじゃないが、一応はデートのつもりだ。
彼女は、ふーん、確かに初めて逢ったときは無口だったもんねえ、と言った。仲良くなったら普通なのに、とも。
彼女の箸は小鉢の塩辛をクリクリとかき混ぜていた。なにやってんの、それ納豆じゃないんだから、と言いかけて、飲み込んだ。
僕が人見知りになったのは、中学生の時だった。
我が家は両親共働きだったので、学校の給食が出ない週末はおばあちゃんの家でお昼ご飯を食べて両親の帰宅を待つ、というのが習慣だった。それは中学生になっても変わらず、なんとなく週末はおばあちゃんの家で過ごしていた。
おばあちゃんは常に穏やかで無欲な人で、早朝の読経と内職を日課に地味に生活していた。
内職の内容はというとこれまた地味で、型通りに折り目のついた厚紙を木工用ボンドでくっつけて小箱にするという単純作業。ただ単純とはいえ手先が狂って失敗してしまうと買い取ってもらえないので、テレビを見ながらなんかはできない。だから、おばあちゃんはもっぱらラジオ派だ。芸能情報とかにはまったくもって疎かったけど、別にそれで困ることは無かったらしい。そもそもテレビにそんなに興味が無いらしかった。
そんなこともあって、おばあちゃんの家には娯楽全般はおろかテレビすら無かった。テレビが無ければゲームもできないわけで、おばあちゃんの家にいる間はボーっとするか、読み飽きた漫画を繰り返し読むというのが僕の週末の過ごし方だった。
ある土曜の昼、いつものようにおばあちゃんの家に行くと、室内の光景がちょっとだけ変わっているのに気付いた。大きなラジオが主として鎮座していたところに主は無く、替わりに小さめのテレビが置いてあった。今思い返せば、その時のおばあちゃんは誇らしげな表情だったような気がする。すごい!なんにせよこれでゲームができる!家じゃあんまりできないもんなあ〜とワクワクしながらテレビを近くで見て、あっ、となった。
そのテレビは当時でもちょっと珍しくなりつつあったモノラル音声で、しかも入力端末がついてなかったのだ。つまり、僕の持ってたスーパーファミコンは繋げられないし、無理やり繋げられたとしてもちょっと物足りない感じの音声になっちゃうわけだ。サイズも14インチくらいと、これも物足りない。好きなアニメを見るにも迫力不足だ。
なんてこった、それにしても、と。それにしても今時モノラルは無いよなあ、と思った僕は、おばあちゃんに向かって言い放った。これはちょっと古いもので、音もモノラルだし、メーカーもよく分からない。おばあちゃんがよく分からないからって電器屋に変なの売りつけられちゃったんじゃない?騙されてるんだよ、きっと!と。
今から思うと、かなり激しい口調だったと思う。それに酷い事を言っているのだけど、当時の僕は気づかない。むしろ、おばあちゃんにこんなものを売りつけた電器屋に対して『正しく怒っている』つもりになっていた。勘違いしていたんだ。
そのときのおばあちゃんの表情は思い出せない。
しばらくしてそんなことも忘れてしまった冬、おばあちゃんは亡くなった。
亡くなって数日後、おばあちゃんの遺品の整理中に、細かい文字がビッシリと書き込まれた数冊のノートを発見した。どうやら毎日日記をつけていたらしい。おばあちゃんは感情を発露させることがあまりなく、いつも笑顔で「ええよええよ、構わへん構わへん」を口癖にしていて、内心どんなことを考えているのか全然解らなかった。だから、人の日記を読むというのは褒められたことではないなとは思いつつも、興味に逆らえずに読んでしまった。
読み始めてすぐ解ったのは、おばあちゃんの日記には自分自身のことじゃなく、人のことばかり書かれているということだ。例えば息子たち(つまり僕の親父と叔父さん)の暮らしぶりへの心配や、孫(つまりは僕だ)がどうなるのかという心配ばかりが書かれていた。たまに息子一家が遊びに来たときや、集まって食事会をした日なんかは「うれしかつた」と書かれていた。自分が損をしただとか得をしただとか、そういったことは書かれていなかった。
更に読み進めていくと、あのテレビの日のことが書かれていた。僕はそこに書かれていたことを、たぶん一生忘れることができない。
「テレビを買つてみたけど、よろこんでもらえなかつたみたい。ちよつとかなしい。どうしたらよろこんでくれるのでしよう」
僕はその時、初めて、おばあちゃんがテレビを買ったのは自分で観るためじゃなく暇そうにしている僕のためだったんだ、ということに気付いた。余りにも遅い気付き。そして、僅かな額の年金と内職の賃金で手の届く範囲で僕のためにテレビを買ってくれたおばあちゃんに対して、気持ちを踏みにじるように酷い言葉を掛けていたことに、ようやく気付いたんだ。
当然ながら、亡くなった人にはもう謝ることもできない。感謝も伝えられない。僕は、取り返すことのできないことをしたんだ、と後悔した。後悔先に立たずとはよく言ったもので、まさにその通りだ。大好きなおばあちゃんだったのに、僕は傷つけたことにすら気付かずに、もしかしたらそれ以外にもずっと傷つけるようなことをしていたかも知れないのに気付けずにいたのだ。
涙が止まらなかった。おばあちゃんに一言謝りたいのに。テレビのことごめんねって謝りたいのに、もうできない。
いつの間にか涙は号泣に変わっていた。
そのことをきっかけに、僕は考え方を変えた。いや、変わったというべきか。自分の迂闊な言葉が人を傷つけるかも知れないという恐怖が、他人との会話を鈍らせていった。そのうち、よく知らない人と話すことが怖くなり、いつしか僕はどこに出しても恥ずかしくない立派な人見知りになっていた。
――でもさ〜、言葉は選んでるよね、ナニゲに。
えっ? と聴き返した。彼女は相変わらずクリクリと小鉢の塩辛をかき回している。周囲は喧騒に包まれたままだ。そこら中から笑い声が聴こえてくる。
少しの間のあと、不意に、ゆっくりと、彼女が口を開けた。
「なんだかね、すごく相手を気にしてる感じがするの。気を遣ってますよ〜というオーラが出ちゃってるっていうのかな。いや、もちろん悪いことじゃないんだけど」
えっ、そんなオーラ出てるの? と思うと同時に、女性はやっぱ鋭いんだなあ、と感心した。そんな雰囲気出したつもりなかったから。もう体に染み付いたと思っていたんだけど。少なくとも、気を遣ってるという意識は、なかった。
「ものすごく、気遣われてるんだな、って感じるときが、あるの。傷つけないようにしてるんだな、って。なんか言いたいことありそうなのに、言ってくれないなー。とか無理してるんじゃないかなー、っとかって。心配になるときもあるもん。今もさ、ちょっと何か考えてたでしょ? 何考えてるのかまでは解んないけど……」
彼女の声が少しくぐもっている。何かを言い出そうとして、少し考えて、つっかえながら話している感じがする。いつもの活発な感じとは、ちょっと違う。やっとの思いで言葉をひねり出すような。
ああ、そうだ。これは、いつもの僕だ。何か言い出そうとして、少し考えてしまうときの僕に似ている。
少し考えて、伝えるのを諦めてしまうときの、僕に。
「……あのさ」
彼女はかき回すのに飽きたのか、塩辛をひとつまみ口に運んでビールで豪快に流しこんだ。
「気遣いってのは、すごく大事なことだと思うの。人を傷つけないっていうのはね。人に平気で酷いことを言える人とかたっくさんいるじゃない?アホだとかバカだとかそんな単純なことだけじゃなくって、人の気持ちを平気で踏みにじるようなね。そういう人もたっくさん居る中で、人を傷つけないっていうのは、すごく良いと思うの」
ゲホゲホと彼女がむせる。たぶん塩辛が変なところに入ったんだろう。ビールは尽きてたので僕のウーロンハイを差し出すと、一気に飲み干して呼吸を整えた。
「ふぅ、ありがと。……うん、だけどね、やっぱり人を傷つけないで居続けるってのは、大変だと思う。そのためには自分自身が傷つかないといけないこともあるわけじゃない? 相手のために、言いたいことを飲み込むためには」
うん、そうだね、と相槌を打つ。
「それにね、傷つかずに人って成長できないと思うの。なんていうかなあ、筋トレって筋肉繊維が傷ついて超回復することで太くなるんだけど。そういう感じなの。傷つけないだけが優しさじゃないというか? なんていったらいいのかな〜」
うまく表現できない自分自身にやきもきするのか、視線を外して頭をポリポリ掻く彼女に、うん、解るよ、とまた相槌を打つ。ジムに通ってる彼女らしい表現だ。いや、表現だけじゃない。伝えようという気持ちがどんどん染みてくる。
よく見ると、彼女の目が少し赤い。さっきむせたのだけが原因じゃないんだろうな、と、思う。
今、彼女は一生懸命に気持ちを伝えようとしてくれている。不器用なりに、まっすぐに。僕が怖くてできないことを、彼女は、僕のためにやってくれているんだ。そう思うと胸の内が少しジンとする。
「だからね、そんなに遠慮しなくていい、っていうか。君が『わざと傷つけてやろう!』って思わない人なのはもう解ってるの。でしょ? だから、思ってること言ってくれていいし、私も言うし、イヤなことならイヤって言うし。そしたらお互いごめんね、って。嬉しかったらありがとうって。それが! コミュニケーションと言うものなのではないかと! ワタクシ思うわけでありますよ!」
茶化すためなのかアルコールが回ってきたのか急に珍妙な軍人口調になった彼女は、再び小鉢の塩辛をクリクリかき回し始めた。
確かにそうかも知れない。人を傷つけるのを過剰に怖がるあまりに言葉を発せず、ただ鬱屈してしまっていることはあった。言いたいことも言えず、自分が折れれば良いんだと思うこともあった。それが優しさだと思っていたんだ。だけどそういうことじゃないのかも知れない。ただ恐れているだけの自分に、それが優しさだと思いこませていただけなのかも知れない。
傷つけないだけが優しさじゃない、か。もう少し相手を信じて、今よりほんの少しだけ近づいて、自分の気持をちゃんと伝えて。それがコミュニケーションの始まりなのかも知れない。自分の中にずっと掛かっていた黒い霧が少しだけ晴れた。ような気がした。
「じゃあさ、ずっと思ってたことを言うけど……いい?」
彼女が、神妙な顔でうなづいた。
「その塩辛、こねくり回さなくていいよ。納豆じゃないんだからさ」
彼女は呆気にとられた顔をしたあと、豪快に笑い始めた。
僕もつられて少し笑った。