ドラマ『素直になれなくて』がTwitterを描けていない理由
みなさん、見ましたか?日本で(たぶん)初のTwitterを扱ったドラマ、『素直になれなくて』。
私なんかもまあ、Twitterユーザーの端くれですのでチラっと見たんですよ。軽い流し観ですけど。で、予想以上にTwitterらしさは欠片も見当たらなかったので、これはなんでだろうと考えてみた次第です。
脚本家・北川悦吏子さんのご意見
既に削除されているものを引用すると言うのも、あんまり褒められたことではないのかも知れないのですけれど。これが一番わかり易く今回の原因になってると思うので、引用させていただきたいと思います。
これを踏まえた上でお話したいと思います。
物語を描くのに必要なもの
本題に入るその前に、物語を描くのに必要なものについて、少し触れておきたいと思います。
ドラマを含めて、物語を描くと言うのは、言うなれば、嘘をつく、ということです。この場合の嘘をつくと言うのは、人を別の人になりすませたり、世界を別の世界のように見せるということです。嘘を付くためにはその「なりすます」先の人や世界を知らないといけない。
物語の根幹でありもっとも重要なのは、その「『嘘の世界』での出来事に『キャラクター』がどう動き、感じるか」です。それに共感した人が涙をしたり笑ったりする。逆に「ご都合的なもの」や「白々しさ」や「嘘を嘘だと思わせてしまう」ものが潜んでしまうと、受け手はガッカリしてしまうのです。
つまり、物語を描くには、題材に対する膨大な知識と人間への観察・洞察が必要なんです。それらをもって、世界の創作と言うのはおこなわれるのです*1。
題材に対する捉え方が間違ってる
このドラマでTwitterが全く描けていない理由を端的に言ってしまうと、北川さんが題材であるTwitterを「ただのシステム」としか認識していないからだ、と言うことです。
例えば、携帯電話が普及する前の時代を想像してみてください。その時代に携帯電話をドラマの題材に選んだとしましょう。この場合、脚本家の人は携帯電話のシステムについて精通している必要性は全くありません。ですが、携帯電話を持ったことで「人間の生活がどう変わったか」については知っている必要があるわけです。それまで待ち合わせの場所などきっちり決めていたのに、携帯電話を持つようになったことでアバウトな約束で良くなった、とか。お互いに携帯電話を持ってるのに待ち合わせに手間取るシーンなんかが混ざっていたら違和感がありますよね。
Twitterの場合も同じです。システムについて精通している必要性は全くありません。ですので、北川さんがおっしゃってるのは一部あってる。でも大きく間違ってるとこがある。それは「Twitterの出現によって人間の生活様式がどう変わったか」という視点が抜けている、ということです。
Twitterの楽しみ方は人それぞれです。例えば主婦が家で家事の合間にのんびりやってるとか、アキバからオフをUStream中継したりとか、ネタポストしてふぁぼったーに掲載されてるのを楽しんでる人もいる。会社では規制されてるから携帯でたまにポストする人もいる。色々な人がいて、色々な生活様式に取り込まれているのが今のTwitterです。
前述した通り、物語をそれらしく見せるために大事なのは『キャラクター』がどう動くか、と言うことです。Twitterを題材に扱うということは、Twitterユーザーがどういう使い方をしているか、Twitterを始めたことでどんな変化があったか、そういった事に焦点を当てて観察・洞察する必要があります。そして、その洞察の結果に得たものを膨らまして虚構の世界を作り上げることで、「Twitterを題材に扱ったドラマならでは」の面白さが出てくる訳です。
北川さんは「Twitterはただのシステム」というスタンスを取っているようです*2。つまりは、その裏側の「Twitterユーザーならではの生活」、もっと言えば人間を見ていません*3。人間を見ていない、ということは、上述の「創作された世界での出来事に『キャラクター』がどう動き、感じるか」が描けない、と言うことなんです。なんでかと言うと、瑛太君や上野樹里さんを「Twitterユーザー」という人間に見せかけることができないからです。
ちょっと長くなりましたが、結論。
Twitterを題材に物語を作るのに重要なのは「Twitterがどういうシステムか」ではなく「Twitterが人間の生活にどう影響しているか」と言うこと。また、それを知り、膨らませて物語に活かすということ。
今回のドラマはそれが出来ていないので、Twitterを描くことができてない、と言えるのです。要は、題材に対する捉え方が間違っている、ということです。
今後のドラマの展開に期待をするとしたら
まずは、脚本家の北川さんが、Twitterユーザーの生活様式に興味をもつこと、だと思います。
Twitterユーザーには色んな人が居ます。色んな人が色々な使い方をしている。そういった細かい事実を集めて研究すれば、そこにリアリティが生まれるでしょう。Twitterを題材にした意味も出てきます。
もしそうしないのであれば、ただ単に瑛太君と上野樹里さんの恋愛ストーリーの味付けの一つとしてTwitterという単語が出てくるだけになるでしょう。その場合、Twitterユーザーからは「なんでやねん!」と総ツッコミを受け、Twitterを知らない人には「なんかよく解らんけど結局なんなの?それ?」となるだけでしょうね。
元々の描きたかったものが「Twitterならではの人間関係」ではなくただ単なる「恋愛」などであれば、それでも良いのかも知れません。が、その場合は「Twitterを題材にしています」と言うのは公言しない方が良いでしょうね。かなり恥ずかしいです。「私は題材に扱うものを研究していません」と声高らかに叫んでるのと同じことですから。
余談
医療機器メーカーの営業マン(ドクター)が頭から水を掛けられてるシーンを見て、「あー、この脚本書いてる人は会社に勤めたことが無いか、異常なところでしか働いたことが無いんだろうなー」と思いました。あれ、現実にあったらパワハラとして社内で罰せられるか労基署行きですよ。
「現実に極めて近い世界」に「面白い嘘」が混ざっているから物語は面白いのです。世界自体が嘘っぽかったらそれは物語として不完全なのではないかな、と私は思います。
*1:よく、若い素人の作家志望者が、最初に書くジャンルをファンタジー小説に選ぶのはこれが理由です。ファンタジーであれば世界を知らなくても自分の中で作ればいいから、扱い易いと思えてしまうんでしょうね。でも、実はその世界を作るのがとても難しい。イチから創らないといけないですから。それで多くの人が挫折するようです。
*2:そのシステムすら満足に把握されては居なかったようです。全編に渡ってですが、Twitterが「複数の人間にメールを送ることが出来るシステム」のように描かれていたのは、私的にガックリきました。ポストかリプライか解らないのですが、メッセージが届く度に携帯電話に着信するという。「それやったらメールの同報送信機能でええやないか!」って胸の中で突っ込んでしまいました。
*3:だから、私のように会社のパソコンでTwitter出来ないからってトイレからモバツイしすぎて電池が切れて社用の電話が取れなくなるとか、そういう描写はたぶん出てこないでしょう。