刃を振り回しながら生きていることに気付くとき
喜びもダメージも、重なることで掛け算のようにどんどん膨れ上がっていくものです。その掛け算が起こる可能性と結果は、元の因子である個人には予想もつかないことが多い。ひとりがほんの小さな攻撃をしたダメージも、同じ所に別の人が攻撃を重ねて行く事で大きいダメージになることだってある。
例えば「お前、全然ダメだな、まったく仕事できないじゃん」と先輩が後輩に言う。これは後輩にとって軽いダメージにもなりえます。ただ、周囲が「あいつもあんな感じだけど、気にしすぎんなよ。でもせっかくだから頑張ろうぜ」とフォロー出来れば、最初のダメージはある程度プラスに転化できるかも知れません。しかし、周囲までも「やっぱお前だめだよなー」となると、ダメージがどこにも昇華されずに重ねがけされていく*1。この時、一人ひとりは「人が追い込まれるほどダメージを与えては居ない」と思っています。思ってすら居ないかも知れません。一つ一つが小さいから気付かない。
また、少し嫌なことを言うと「そもそも攻撃することを生理的に嫌悪するという感情が欠けているから攻撃行動をおこし、嫌悪する感情が育ってないから『攻撃をした』ということに気付かない」というのもあるでしょう。また、集団心理というのもあります。集団だから通常はやらないことをやり、そのやりすぎたことに気付けない。
とかく、こんな理由で攻撃した方は気付かないものです。これはどんな問題でもそうで、ブログやTwitterの炎上だってそうです。
いじめ問題が出ると、当然のように「いじめられた側」の意見が出て「いじめた側」の意見は出てきません。これは「いじめ」に当事者の意識がないから当たり前のことです。これは仕方ないことだと思います。むしろ、攻撃した(攻撃になってしまった)側がその事実に気付けない以上は、いじめられた側の目線から「こういう環境は変えたい」と発しないと話は変わらない訳です。
いじめられた側からとしての意見を出すと同時に、果たして自分はそのようなことをやっていなかったか? そう考えていくことは、まず問題解決の第一歩なのではないでしょうか。当たり前のことですが、人間誰もが他者を知らない間に攻撃しながら生きている訳です。何気ない言葉で人を傷つけていることだってある。だから言葉や振る舞いには気をつけないといけないし、逆に気にしすぎて何もできなくなるというのは避けないといけないのです。
「いじめられた側ばかりで意見をいうよね」と斜に構えてしまうのは、いじめられた側の視点からの意見すら封じてしまうのではないか。意見が出なければ何も解決しないのではないか。そんな風に私は思うんですが、いかがでしょう。
*1:だからこそ「悩みが相談できる友人がそこにひとりでも居るならかなりマシ」なのです