アーリーアダプターとキャズムと評論家
Twitterを見ていると、自称他称問わず、評論家の人が数多くいるようです。そういった評論家の人は口を開けばアーリーアダプターだキャズムだとおっしゃる。そんな中で見かけたひとつのつぶやきが引っ掛かりました。なので、その辺についてちょっと考えてみた次第です。特に鮮烈なオチとかは無いエントリーですw
『アーリーアダプター』と『キャズム』とは
その手の界隈ではもう当たり前の言葉のようですが、まだそんなに浸透しているとも思えませんので、簡単に。
アーリーアダプターと言うのは、新しい製品や技術が登場したときにまず飛びつく層です。『新しいもの好き』と置き換えてしまって良いと思います。総じて、オタクな人が多い、という印象を私は持っていますが、そんなに外れてないでしょう。アーリーアダプターよりも更に早く飛びつく層が有りますが、これは気にしなくて良いです。数が少ないのと、オタクさが一般を遥かに逸脱してるので、あんまり俎上に上がることは無いです。
次にキャズム。これは何かと言うと、アーリーアダプターと一般人の間の温度差のことです。例えば、インターネットが普及する直前を考えて見ますと、「インターネット凄いよ!」という新しい物好きと、「まだちょっと良く解らないし、商売になるの?何が便利なの?」という一般人との間には大きな溝がありました。新しいもの好きが熱狂するのと裏腹に、割と冷ややかに見る一般人。この温度差こそが、キャズムな訳です。
キャズムを超える、とは
なぜキャズムが注目されるかと言うと、キャズムを超えてしまって一般層に流れ込めば普及率が一気に上がるから、です。インターネットの普及率があるときから一気に上がったように。では、どうやって超えさせるか。ここがミソなわけですね。
大事なのは『「一般人」は新しいものが「どうすれば自分にとってメリットが産まれるものなのか」が解らない』と言うことです*1。逆に言えば、一般人が自分にとってメリットを感じられる売り込み方をされればキャズムは超えられるわけです。
(出所:『キャズム――ハイテクをブレイクさせる「超」マーケティング理論』)
評論家の役割とは
評論家と言うのは、定義的にはなんとなく曖昧なものです。ですので、言葉を定義するためにwikipediaの力を借りましょうw
評論は欧米においては「(個人が)物事をどう捉えるか・把握するか・判定するかを表明するもの」であったのであり、 日本にも近代になり欧米の「評論」が流入した。やがて「技術的に有用な多くの知見を持つことになった者がそれを社会へ提供・還元するもの」という面が強くなり、評論家の存在が前面に出てくるようになった。
評論家 - wikipedia
私流に噛み砕くと、専門知識を持った人がそうでない人に解るように伝えるのが評論家の仕事だ、ということになります。
最近だと、脳科学者の茂木先生なんかはテレビで良く脳について解りやすく説明してくださっています。彼は評論家としても仕事をされている、と判断できると思います。茂木先生がテレビでされているような仕事、それが評論家となるのでしょう。
先程のキャズムの話と合わせると、「新しい物好き」が持て囃すアイディアやサービス、事業、技術などを、一般の人に解りやすく説明してキャズムを超えさせるところに、評論家の役割があると考えられます。逆に、いわゆる評論家や批評家という人がこぞって「キャズム」だの「アーリーアダプター」だのという言葉で煙に巻くという自体が、自身の立場を無くしているとも言えるわけです。
色々踏まえた上でのこのつぶやき
専門用語を使わないと舐める人々もいるのです。RT @dankogai: .@hazuma わざわざ「限定合理性」って言わなくても、「カーナビの指示通りに運転しても、機械に支配されることにはならないでしょ」で済む希ガス
Twitter / hiroki azuma
この発言者(東浩紀さん)は自称・批評家と言うことです。私はあんまり存じ上げないのですが、朝まで生テレビなどにも出ている*2と言うことなので、著名な人なのでしょう。
この発言が気になったので思わず取り上げてしまいましたが、彼のような評論家・批評家は決して珍しくないと思います。仕事上で評論家でなかったとしても、そういう会話をしうることは幾らでもある。私も批評家タイプの人間なので、これは反面教師になると思いました。この発言者に対しては、もうちょっと自分のスタンスを考えたほうが良いのでは?と思いますし、自分に対してはこうはならないでおこう、という思いをますます強めたのでした。
評論家・批評家を目指したい人は、その「誰に何を伝えるために自分は居るのか」をを考えるのが大事ではないかな、と思います。
なんかまとまりがつかないので、後日またまとめなおそう……。