じゃがめブログ

毒にはなるが薬にはならない、じゃがいもの芽のようなことだけを書き綴るブログです。

不寛容になっている人に不寛容になるなと言っても意味が無いのではないか、という話

 以前のエントリーの中で、『どうしようもないことをどうにかしようと悩まないこと』と書いたことがあります。→新社会人に贈る、『うつ』にならないための心得十箇条 - じゃがめブログ

 世の中の物事を「自然的・人為的」という軸と「局所的・広範囲」という軸の表にマッピングすると、こんな感じになります。局所的というのは、個人的と読み替えてもらってもいいです。ざっくりですが、雰囲気は伝わるでしょうか。

 I・IIの領域は基本どうしようもないことばかりです。自分自身なら律せると思われがちですが、自分自身のことであっても自然的なものはコントロールするのは実に難しいものです。
 IVに関してはグレーゾーンではあります。他人に干渉することは可能でしょうが、思い通りに操るまでは殆どの人が不可能でしょう。できることと言えば、自分の意志や「こうあって欲しい」を投げかけて、他人の「自由選択による行動」を促すことくらいです。なぜなら、他人もまた自分と同じように周囲をコントロールしようとしているからです。そのコントロール権を奪い合おうとする間に挟まるものがルールであったりマナーであったりするわけです*1

 こう考えていくと、人間がどうにかできること、コントロールできる範囲はIIIの領域の「自由選択に依る行動」に留まることになります。ここに注力して、それ以外は気に病まないようにしよう、というのが弊エントリーの主張でした。コントロールできないことをコントロールしようとすると、物凄いエネルギーを消耗します。理想と現実のギャップに精神的にも消耗します。人によっては理想と現実のギャップを埋めるために帳尻を合わせるように、なんとかコントロールしようとしてエネルギー消費をしてしまうものですからね。そして、この「コントロールできる範囲」は大概の人が考えている「コントロールできる範囲」よりも、恐らく大幅に少ない。

 この「コントロールできる範囲」を必要以上に大きく見積もると、人は不寛容になっていきます。自分にコントロールできる範囲で自分にとって不利益なことがあったとしても、その不利益は受け入れがたいものですから。しかし残念なことに、実際にはコントロールできる範囲は実に狭い。ということは、不寛容な人は、常にエネルギーを無駄に消費し精神を疲弊させているのではないでしょうか。


 再生JALの心意気/さかもと未明(漫画家) (PHP Biz Online 衆知(Voice)) - Yahoo!ニュース

 この記事を読んで感じたのは、さかもと未明さんの言動(着陸時の歩行・飛び降りる発言・乳児を連れた母親に対する暴言・JALへのクレーム・マナーの押し付け・文章の論理性の無さ)は確かに批判されても仕方ないものではあるのですが、だからといってこの人を即悪にしてしまうのはちょっとやりすぎなんじゃあないか、ということでした。
 この人、かなりの不寛容ですが、自分というものを維持するためにコントロールできる場所を大きく見積もりすぎてギリギリのテンションなんじゃあないかなあ、と。
 そう考えると、無碍に「実際に飛び降りればよかったのに」とかはなかなか言えることではないし、「不寛容になるなよ」とか「本来なら母親と子供を受け入れるべき」と言ってもあんまり通じないのではないのかなあ、などと思うのですが、みなさんいかがでしょうか。冬も深くなって参りましたが、お体はよろしいでしょうか。

 取り留めもない雑文になってしまいましたが、本日のところはこの辺で。

*1:ルールを変えようというアクションをとることはできますが、それもまた難しいでしょう。人が複数名存在したら、その間にはコントロール権の奪い合いが始まります。場をコントロールする力を得たものが場を支配し、コントロールを失った人は場に委ねるしかなくなる。そういう衝突を繰り返した結果、衝突が最小限になりつつ相互的にうまいこといくようにバランスをとるために積み上がってきたのがマナーでありルールですから。

自称ツッコミはスルーするのが良いのでは、の話

オードリー・若林「評論家きどりばかりのツイッター」 | 世界は数字で出来ている

 会話に関して言えば、ツッコミに回りたがるというのは、関東の風習な気がしています*1。私が上京して一番最初に受けた会話の洗礼は「おっ、関西から来たの? ボケてみてよ、おれが面白く突っ込んでやるから」というスタンスの振り方とツッコミでしたので。残念がらそれが面白かったことは一回もなかったんですが。

 なぜそうなるかと推測するに、ボケが「自分を落とす」のに対してツッコミが「その場を動かない」というのが一般的な認識になってるからなんじゃあないかと思い至りました。ボケが自分を落としたり敢えて間違ったことを言い、ツッコミがそれを正しく戻す。だからツッコミは自分を落す必要がなく、相対的に上がる。また正しいことを言えばいいだけなので技量も必要がない。そういう認識。簡単そうにみえるんですよね。だから手軽にやろうとする。

 ではツッコミってそうなのかというと、そうではない。一番ベタなツッコミの役割は、ボケ(現象の誤り・違和感)に的確に気付いて、解りやすい形で見聴きしている人に伝えることです。ボケが生み出した違和感、異常事態をスパーンと埋めることで見聞きしている人の中に快感を作られるわけです。言ってしまえば同時通訳みたいなもので、ボケの世界観を観てる人に翻訳して伝えるという仕事をしている。「間違いを指摘する」こととイコールではありません*2

 このような笑いが生まれる理屈については、桂枝雀さんが興味深いことを語っておられます。もちろん、枝雀さんの語られることの方が圧倒的に理に適っていて面白いものですが、もし興味があれば読んでみて下さい。
 らくごDE枝雀 (ちくま文庫)

 閑話休題。このようなツッコミに関する妙な認識が生まれたのは、漫才の表面的な浸透によるような気がします。こと、お笑いに関しては*3。割りと大きな風潮なので、そう簡単に変わることもないだろうなあ、という印象です。


 この元エントリーで述べられている「ツッコミ」には、単に「誤りを指摘したがる」というのも含まれているのですが、どちらに関しても、自分を落とさず他人を落として優位性を演出するゲームをやってるというだけです。そういう人達は日常生活の中にも出てきますし、はてブ開けば一山いくらで居ますので、Twitterに限ったことでもないと思います。
 本来であればそんなゲームに付き合う必要もないのですが、有名人になればなるほどどんどん顕在化していくというのも確かでしょう。ことサブカルに関して言えば、自分の優位性を保つために知識自慢をする人が多くて、更にそういう人は演者(役者・芸人・歌手など)にも同じ振る舞いをするんですね。よって、今後は積極的なスルーをしていくというのが精神衛生上良いのでは、などと思いましたが、いかがでしょうか。

*1:いや、関東と関西(大阪・兵庫)以外で生活したことがないので、関東以外でもそうだよ、という意見もあるかも知れないんですが。

*2:TV番組『小杉&後藤のなんでやねん×なんでやねん』をご覧になった方は、番組中で狩野英孝さんが見せた漫才におけるツッコミがこの「間違いを指摘する」だけだったことにお気づきになったかも知れません。じゃあそれも笑いになるじゃないかという意見もあるかも知れませんが、あの漫才はフット後藤の「何がおもろいねん」で初めて笑いになったものなので、一般会話でそれはちょっと難しいと思います。

*3:余談ですけど、エンタ芸のような「誰でも真似できるフレーズ」が受けるのも、手軽に会話の中に入れられるからでしょうね。