じゃがめブログ

毒にはなるが薬にはならない、じゃがいもの芽のようなことだけを書き綴るブログです。

簡単おいしい焼き豚のつくりかたと豚肉の生食に関する余談

 誰でも簡単にできて美味しい焼き豚(というより煮豚に近い)の作り方をTwitterに投稿したところ、togetterにまとめていただいておりました(AsmodeusDB氏による「焼き豚を作ろう!」 - Togetter)
 そちらから抜粋です。画像はURLから観られます。レッツ焼き豚!

作り方(Twitterより抜粋)

余談

 上述していますが、豚肉の内部の温度は必ず63度程度になるようにしてください。これは肉は温度が65度を越えた辺りから水分を失いタンパク質が硬くなるため、美味しくいただくための上限ギリギリの温度ということでもありますが、それ以上に、ウィルス・菌・寄生虫のリスクを減らすためです。およそ63度を維持することで、食中毒や寄生虫リスクは大幅に減らすことができます。豚は肉にも内臓にもリスクが多いものですから、気を付けて召し上がりください。といっても、あまり難しく考えることはありません。現在一般に使われている炊飯器の保温機能を使うと、だいたい63度くらいになるようです(一応、温度計で肉の温度の確認はしてください)。

 63度という温度についてもう少し追記いたします。余談の余談で余談が少し長くなりますが、もう少しお付き合いを。

参考情報:USDA Revises Recommended Cooking Temperature for All Whole Cuts of Meat, Including Pork, to 145 コF

 日本の情報で温度が明記されているものが見つかりませんでしたので、米国の情報ではありますが日本語訳されたものを抜粋します。

米国農務省(USDA)は、豚肉、ステーキ、ローストおよび骨付き肉を安全に加熱するための推奨事項を更新する。今回の変更では、すべての塊肉について、料理用温度計で肉の最も厚い部分の温度を測定して 145 °F(約 63℃)になるまで加熱し、切分けまたは喫食前に肉を 3 分間置いておくこと(rest)を推奨している。 (略)USDA は、豚塊肉の安全な推奨加熱温度を 160 °F から 145 °F に引き下げ、3 分間の肉を置いておく時間を追加する。牛、子牛、子羊の塊肉については、安全な加熱温度は 145 °Fのまま変わらないが、USDA は今回、調理に関する推奨事項に 3 分間肉を置いておくことを追加している。生の豚肉、ステーキ、ロースト、骨付き肉は 145 °F まで加熱し、3 分間置いておくことで、肉を微生物学的に安全な最高品質の製品に仕上げることが期待できる。

食品安全情報(微生物)No. 11 / 2011(2011.06.01)国立医薬品食品衛生研究所 安全情報部

 昨今、牛レバーの生食が禁じられたことを受けて豚レバーに流れる人が居ます。が、豚肉は生食には適さないものです。先程も申し上げた通り、ウィルス・寄生虫・菌のリスクが高いのです。

 豚レバーの生食を『文化』と呼ぶ人もいらっしゃいます。ですが、食文化というのはもう少し深く醸成されるものでしょう。「何か新しい食物を発見したが、リスクがある」→「なんとか無毒化できないか」→「なんとか美味しくできないか」→「なんとかもっと美味しくできないか」→……という積み上げが文化です。例えばふぐには毒がありますが、食べても問題ない調理法が確立され、更に美味しく食べるための調理法ができあがった*1。そこまで積み上がって初めて文化と呼べるのではないでしょうか。

 豚のレバーにはどのようなリスクがあるのか。どうすれば食すことができるようになるのか。どうすれば美味しく食べることができるのか。制限のあることです。レバーは加熱すればややパサパサになってしまう。低温調理をしても、(ガチガチに焼くよりは柔らかいですが)硬くはなります。が、そういう制限の中にこそ新しく面白い豚レバーの調理法という文化が生まれることを願います。

*1:余談の余談ですが、ふぐの刺身が薄切りになっているのは、ふぐの身が硬くて食べにくいためだそうです。富豪食いするのは「おいしくない食べ方」なんですね。

iPhone(iOS5)で、ビデオ・Youtubeの音声のみ再生する方法

 有名なのかも知れませんが、発見したので調子に乗ってメモ。もしかしたらiOS6ではできないかも。未検証です。

1.ビデオアプリ(Youtubeアプリ)で音声のみ再生したい動画を再生
2.再生したまま、または一時停止状態でアプリを終了(「完了」しないこと)
3.ホームボタンをダブルクリックしてタスク一覧*1を出す
4.タスク一覧を右にスライドして、音楽再生パネル(画面の縦ロックボタンのあるとこ)を表示
5.再生ボタンをタップ

 これで音声だけ流れます。ロックしても流れます。動画の音声は楽しみたいが画面はロックしたい、という場合に使えると思います。


 ところで、これと近い部分で謎の挙動があるんですけれども。

1.音楽アプリを実行して音楽を再生し、アプリを終了(音楽は再生したまま)
2.ホームボタンをダブルクリックしてタスク一覧を出す
3.タスク一覧のアイコンを長押しして音楽アプリのタスクを終了する(ここで音楽が終了する)
4.タスク一覧を右にスライドして音楽再生パネルの再生ボタンをタップ(音楽が再生される)
5.左にスライドしても音楽アプリのアイコンが無い

 なんなんでしょう? 音楽再生とタスクとアイコンが関連していると思いきや。微妙かつ地味なんですけど、謎です。なぜ。

*1:正式名称不明。あれ、何て名前なんですか?

プリキュア報道を擁護するエントリーを読んで

 一ヶ月ほど前から話題になっていることなので今更感があるのですが、今日もまたBLOGOSのトップに上がっていたので触れておきたいと思います。取り巻く状況は、Twitterでの発言やはてブを観察してみました。

 話題の発端になっているのはこちらのブログエントリー→プリキュアの報道は妥当 : アゴラ - ライブドアブログ

 要約します。

根拠:好むアニメと犯罪者数は恐らく相関があると私(参照元エントリー筆者)が考えており、同じように考える人がたぶん居る
結論:幼女に対する性犯罪容疑者と、容疑者がプリキュア好きであるという情報を関連付ける報道は妥当である

 要約するとスッキリしますね。要するに「『(自分が思う)みんな』が『プリキュア好きな人は犯罪を犯しそう』って思ってるから、その偏見を強めるような報道をしてもよい』ということです。

 根拠を観てみると、『恐らく相関がある』とするために数値を出して居るのですが、その数値がすべて仮定です。よって、これは何ら意味を持たないデータです。元エントリーにもあるように、単なる印象でしかありません。「私が考えるのと同じように考える人がたくさんいるから」というのも、なんの裏付けもありません。

 通常、根拠となるデータがある情報に対して反駁するには、また別の視点からとったデータを照らして妥当かどうか考えるものです。が、このエントリーでは、それがない。「私が関係あると考えているので覆したければデータを出せ」というのは、道理が通じていないことです。これでは議論にも対話にもなりません。

 また、エントリー中で「なぜ幼児性犯罪に対する嫌悪感が強いのか」「女性専用車両について」が引き合いに出されていますが、そのパラグラフはすべて本題と全く関係ないことです。全く関係ない情報を並べることで恰も繋がっているように見せるのは、一種の誤謬です。まともに論を並べたいのであれば、やるべきではないでしょう。

 よって、このエントリーの主張に根拠はない、と私は考えます。


 ちなみに、主張で肯定されている「幼児性犯罪者がプリキュアを好きだった」という報道は、あまり褒められたものではないと私は考えます。この報道の仕方って「今日、クラスの給食費が盗まれました。犯人は解りません。……そういえばヤマダくん、今日のお昼休みに教室に一人だったよね。だからといってどうということはないんだけどね。」と同じ話法になりかねないからです。

 人はまったく無関係な情報でも上手く並べられると相関があるかのように感じてしまいます。印象が作られる、ということです。それがひいては偏見になってしまう。あまりよろしいとは言えないでしょう。

 引用元の筆者さんは「私が『オタクは異常』という印象を持っているから報道しても良い」と言っていますが、これは逆で、これまで「『オタクは異常』という報道をしたことでそういう印象を持つ人が増えた」ということの結果なのではないかと思います。偏見を持っている人がいるからといって、その偏見を助長するような報道が正当化されるかどうか、ということです。私は『正当化されない』と考えます。

 なんというか、そもそもメディアによって作られる偏見の影響を受けることを正当化するためにメディア擁護しているようにも見えました。


 このエントリー書いてて思いましたけど、ほんとにどうでもいいことですよ、これ。この元エントリーの論理性で何かに影響を与えるということは無いと思います。正直な所、この程度のことをさんざっぱら罵倒する必要もないのでは、と思うのですが、いかがでしょう。

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批判するときに意識してること

はじめに

 私自身はあまり批判をするということはなく、主張として「私はこんなこと思うんですが、どうでっしゃろかいな〜」というスタンスを取ることが多いです。それでもたまに批判をしたくなることや、主張をすることが批判の形式をとることもあります。

 そこで、批判が意味を持ったものになるように、私が意識していることをまとめてみました。メモ的に残します。ちなみに、前提として「論理的であること」というのがありますが、それは批判に限らずの話なので割愛します。

批判のガイドライン

何を目的としておこなうか?
評価対象は何か?
評価対象に人格は入らないか?
自分の言いたいことを言うためだけに都合よく相手の論を抜粋していないか?
不必要に強い言葉を使ってないか?
余計な一言がないか?
今、空腹か睡眠不足ではないか?

何を目的としておこなうか?

 自分が発表しようとしている批評は、どういう目的で書かれたものか。
 批評を書く目的を『意図した読者』で分けると『批評元の作品・人物』『批評元の作者以外』の2通りになります。
 相手に意見を伝えるためか、意見を他者に展開するためのものか。そのどちらでもない場合は、単なる罵倒であったりすることが多いので、その時点で書くのを辞めること。

評価対象は何か?

 対象となるのは『論の前提』『論理展開』『知識』『結論』のどれか。
 どの部分で自分と齟齬があって異論を持つのかを決めておくことで、論が明確になる。

評価対象に人格は入らないか?

 人格攻撃しても誰も得しない。
 『自分がスッとして溜飲を下げること』が目的なのか、よく考えること。

自分の言いたいことを言うためだけに都合よく相手の論を抜粋していないか?

 長い文章の一部だけを抜粋し、都合よく解釈していないか。
 インターネットでの素人言論場(しゃべり場的な)ではtumblrやmatome navor、togetterなどの利用が盛んになることでスクラッピング文化ができつつある。その中で「都合の良い論」だけを使っていないか。ともすれば、昨今忌み嫌われるマスメディアの捏造と同じような行動になっていないか。

不必要に強い言葉を使ってないか?

 『強い言葉』とは、罵詈雑言の類や敬意のない単語、慇懃無礼な言葉。『バカ』『アホ』『クズ』など。最近では『マスゴミ』などもそう。印象が強い言葉は論よりも目立ってしまい、論を読者に届けない。
 そもそも、『強い言葉』を使ったとしても、論の正当性は担保されない。『強い言葉』を使うことで生まれるのは、自分の中の感情をより強く表現するということでしかなく、批判には適さない。

余計な一言がないか?

 批判に必要な情報以外に言葉を足していないか。
 「だからお前はアホなのだ」などを足すことで、感情の問題になってしまう。感情の問題になってしまうとそこから感情の叩きつけあいになる。実に非生産的で非効率なので避ける。

今、空腹か睡眠不足ではないか?

 生存欲求が満たされていないと、満たされているときに比べて精神的に不安定になり感情がネガティブに振れることが多い。感情がネガティブな方向に触れた状態で批判をしようとしても、感情が論に余計な色をつける。金持ち喧嘩せずとはいうが、一旦自分を満たした状態にすることで喧嘩ではなく批判になるように意識すること。

まとめ

 批判はどうしても否定が入るものです。否定というのは、それが正論であっても(正論のほうが)言われたほうが嬉しくないものです。嬉しくない感情の状態で双方にとって、または批判された方にとっていい落とし所を見つけるというのは非常に難しい。よって、批判をする時は意識的に慎重に、なるべく感情を昂ぶらせ逆撫でしないように意識しなければならない、と私は考えています。

 みなさんはどうでしょう?

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『体調が悪いときは休め』というのが押し付けになってないだろうか?

 特に答えのない、内省的な話です。

 季節の変わり目ということで、体調を崩している人が多いようです。私も、今月頭から奮わなくてしんどい日々だったのですが。そんな中、仕事を手伝ってくれている同僚がマスク姿に咳という完全な風邪ルックで仕事をしてくれていたので、気になってしまいまして。

 私としては、体調悪いときは無理せず休養するほうが良いと考えています。無理して働けば、健康な状態で仕事をするより集中力は下がります。体がツラい時に無理をしては精神的にも病みますし、頭も朦朧としますから、当然のように効率も下がる。効率が下がれば成果量が減ります。成果量が減るということは使う体力比で成果量に割く割り合いが大きくなりますから、品質も下がります。何らいいことはない。場合によっては周りに病気をうつすかも知れないわけですから。そこはもう休めと思うわけです。だいたい、体がツラいのに無理して働いたところで楽しくない。楽しくないことを今後も良い感じにノッてできるかというと、できないと思うんですよね。

 というわけで、あまり深く考えないで「大丈夫か、風邪? 体調悪いなら帰りなよ。で、健康になって取り戻してよ。そのほうが効率いいじゃん」と言っちゃったりするわけです。


 でね。それで今日「あら?」と思ったことがありまして。それが「『体調が悪い時は休養した方がいい』というのは自分が思い込んでるだけではないのか?」ということ。それって私の主義主張であって、相手の考え方とは違うわけですよね。

 人によっては「無理してでも頑張ってる自分を観て!」という考えもあるだろうし「後のことより今この瞬間出せる成果こそが大事」という考えも、「残業でもなんでもしてお金が欲しい」と考えもあるかも知れません。「効率なんてどうでもいいじゃん、その場所に居たということが大事なんだよ」という考えも、あまり認めたくないのですが、あるのかも。

 そう考えると、あんまり主義主張を押し付けるのもどうか? などと思ってしまうわけです。


 相手が後輩だったり管理してるメンバーだったりすると、心中で(そうは言いましても、今日無理しないと……気合見せるところでしょうが……)と焦りながらも、社内力学的に従わざるを得なくなったりするでしょう。そういうのって、押し付けにならないのだろうか、というのが最近の葛藤。君の状態からして休んでも問題ない、というよりむしろ休んでくれたほうがいい、といったところで納得させられるんだろうか? と。私自身、体調悪くなったらすぐ無理をしないモードに入ってしまうタイプなのであんまり気にしてなかったのですけど。どこまで口を挟んでいいのか……?


 名を馳せた経営者が労働について語る中に「死ぬ気で働くことが尊い」というようなことがあったりしますが、そういう人にとっては私と仕事するのはやりづらいのではないのか、などと考えたのでした。


 結局は、日々の対話のような気もしますけれどね。しっかりと「労働に対する考え方」が共有できていれば問題なかったりするので。問題があるとしたら、関係性が築けておらず価値観の共有が浅い場合なんですよね。そういうとき、どうしたもんなんだろうか。


 いやぁ、参った。

新社会人に贈る、ビジネスメールの基本

 新社会人に贈るシリーズ。今回は、ビジネスメールの基本についてです。

メールとは何か

 メールがどういうものを指すのかは、既にある程度知られているでしょう。普段から友人同士でも使っているわけですから。ですが「メールとはどういう道具なのか」ということについて掘り下げている人は少ないようです。

 メールは、コミュニケーションを図るための道具です。イワシを裁くのにノコギリを使いますか? 樹木を切り倒すのにペティナイフを使いますか? 道具には適切な使い方があり、適切に使うことで効果を上げます。メールも同様です。

 では、メールという道具にはどのような特性があるでしょうか。メールを他のコミュニケーション手段である『対面での口頭会話』『電話で話す』ことと比較してみましょう。
 主なメリットはこのようになります。

・エビデンス(対話内容)が残しやすい
・一度に送れる情報量が多い
・一括で送れる送信先が多い
・相手が読みたいタイミングで読める

 裏を返せば、上記に当てはまらない場合はメールを使う必要性は無い、またはデメリットが優位になると言えます。メールには以下の様なデメリットもあります。

・相手が読みたいと思うまで読まれない
・情感が伝わりにくい

 つまり、緊急で重要な情報の伝達や、直ぐに返事が欲しい相談、お詫びなど感情を伝える必要があるケースでは使えない、ということです。

メールをビジネス道具として使う上で大事なこと

 ここでは絞って2点だけ。たくさん有っても意識しづらいと思うので。

・なるべく早くファーストレスポンスを返す
・いつまでに何をして欲しいかを示す

なるべく早くファーストレスポンスを返す

 メールを受けたらすぐレスポンスを返すというのは、メール送り手側が持つ「届いてるのか? 頼みごとは伝わっているのか?」という不安を解消するためです。「メールは届いてますよ、対応するから待っててね」という回答が有った場合とそれが無かった場合では、どちらが待てるでしょうか。
 まずレスポンスを返したら、次におこなうことは、メールの対応の優先順位をつけることです。入ってきたメールの依頼に着手してはいけません。

 新人だと色んな依頼や作業の押し付けが入ってくるでしょう。これを割り込み作業から順にやっていっていては、何時まで経っても作業が終わりません。割り込みが入るたびにやってた作業が分断されてしまっては、元の作業に戻るのも大変。だから、割り込みの作業は優先順位を付けて順番に対応していかないとならないのです。でないと、最初の方に依頼してきた人の作業は永久に解決しないことになってしまうでしょう?

 優先順位を付けてこなそうとすると、場合によっては対応が遅くなってしまうこともあります。そのとき、相手に一報を入れておかないと相手が待ち続けてしまうことになります。よく「終わったら報告しようと思ってました」という人が居ますが、その人の作業がもう終わりそうなのか、まだまだ終わらなくて待たなくてはならないのかは当人しか解らないことなのです。ということは、待ってる側は「もしかして伝わってないのかも?」「いつまで待てばいいんだ?」とやきもきしなければならなくなります。これってストレスですよね? だから、まず最初にレスポンスを返すのです。ちゃんと通じていることが伝わっていれば、そんなに酷いことにはなりません。もちろん、あまりに遅くなりそうならその旨を連絡する必要はありますけれどね。

 他人のストレスを減らすことで、余計なトラブルを減らしましょう。

いつまでに何をして欲しいかを示す

 ビジネスメールは、ほとんど依頼の為に使われます。あと、通知。
 依頼は「いつまでに」「どうしてくれ」が無いと、相手は動いてくれません。「いつまで」が無ければ、相手からすれば「いつやってもいい」と判断されます。「どうしてくれ」がないと、そもそも何をやったらいいのかが解りません。余程か親切な人なら「で、私はどうしたらいいの?」と聴いてくれるかも知れませんが、多くの場合「どうして欲しいのかよく解からんから、とりあえず放置」と判断されます。

 このように「いつやってもいい」「どうしたらいいのかよく解からん」と判断されてしまったら最後、相手の中での優先順位はどんどん下がっていきます。もしかしたら忘れられてしまうかも知れない。

 よって、ビジネスメールには明確に「いつまでに」「どうしてくれ」を書く必要があります。書いておけば、後から催促するのも楽です。


 メールを含むビジネスコミュニケーションツールは、極端に言えば「相手に自分の望むように動いてもらう」為に使うものです。メールもそう。その肝心要の部分を押さえておくことが、道具としての効果を上げるために必要なことです。

 実に単純なことですが、ビジネスでメールを使う上で大事なことを並べてみました。

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ココロコネクトのドッキリが失敗した理由をお笑い理論から考えてみる

最近ブームになってるもののひとつに『ココロコネクトのドッキリ』があるようでして

 このココロコネクトというのはアニメ作品らしく、作品のスタッフが声優に仕掛けたドッキリが酷いのではないかということで話題になっております。申し訳ないのですが、このココロコネクトを未見のままドッキリについて考えてみます。

 今回のドッキリの経緯についてはこちらのサイトに詳しいようです。
【パワハラ】アニメココロコネクトのドッキリ企画が鬼畜過ぎると話題に【まとめwiki】 - トップページ


 要するに、一旦持ち上げておいて落すというのが酷い、ということですね。幾つかのサイト(こことかこことか)でもそのような結論。

 世のご意見では「一旦下げてから上げるならよかったのに」ということなんですけど、まあそうなんですよね。この辺、お笑い理論として既に提唱されている方がいるので、その方面から考えてみます。

桂枝雀さんのお笑い理論『緊張と緩和』

 桂枝雀さんが生前にお笑い理論を体系立てていて、その中に『緊張と緩和』というものがあります。緊張させておいてホッと緩和することで思わず笑いが生まれる。これが逆では笑いが生まれにくい。また、そこそこ大きな緊張状態から緩和状態に一気に持っていくことで、安堵と共に笑いが起きるという。
 更に桂枝雀さんのお笑い理論でいうと、笑いが起こるには「他人のちょっとした困り」が良いと言います。困るというのは緊張です。自分が困るという緊張は強すぎて、緩和に結びつかず笑いになりにくい。自分は困っていなくて他人は困っていると、それは他人ごとなので緩和になる。ただし、他人ごととはいえ人間はどこかで他人と自分を重ねるため、大きすぎる困りごとではこれまた緊張が勝ってしまって「笑い事ではない」となってしまう。だから「他人のちょっとした困り」がちょうど良い。そういう理屈です。

 枝雀さんはこの他にも慧眼でお笑いを分析していますが、それについてはまた今度。実によく考えられた理論だと私は思っております。
詳しく知りたい方には、こちらの本をお勧めします→ Amazon.co.jp: らくごDE枝雀 (ちくま文庫): 桂 枝雀: 本


 で、そういったお笑いの理論を踏まえた上で今回のこの件を観ると、上記の「緊張と緩和」「他人のちょっとした困り」の2つで反していることが解ります。緩和(オーディション合格)からの緊張(落選していた事実)に流れたことによって「笑い事ではない」と思わせ、困りごとが大きいために「気の毒に」と思わせた。

 これではまず笑いが起きるはずもありません。この時点でドッキリ大失敗というわけです。

 笑いが起きず、それでいて個人を貶めたような格好になっているわけですから、これはもう誰も幸せにならないですよね。少なくとも、ドッキリ仕掛けられた方と、それを観ていた方としては。だから炎上するということになってしまったと、そういうことです。
 お笑いの理論から観たドッキリの失敗の理由はこんなところです。

じゃあなんでこんなことになったのかということなんですけれど

 あくまで推測の域からは出ないものなんですけれど、私としては「笑いについての理解がない人がテレビの上辺だけ真似た」のが大きな原因ではないのかなあと捉えています。

 なんでもそうなんですけど、基本を抑えないでいて個性の強いものを真似しようとすると、その悪いところばかりを吸収してしまいます。例えば、歌が下手な人が桑田佳祐さんやミスチル櫻井さんの歌い方のアクの強いところを観て「だから上手いんだ」とばかりに吸収したとして、じゃあ歌が上手くなるかというと、まずなりません。変な癖がつくだけです。

 ドッキリの件も同じで「周到な環境を作って人を騙して公衆の面前でネタばらしをする」という部分をドッキリの要素だと考えてやったのでしょう。だけど、実際に重要な要素が手落ちになっていて、更にドッキリされた人へのフォローもおろそかだったので、残念な結果になったと。原因をたどっていくと、そういうところに行き着くのではないでしょうか。

 お笑いの理論、ひいては人間の理解を深め、誰もが笑えるような配慮をしていればこのようなことにはならなんだのでは、と、そんな印象を受けました。みなさんいかがでしょう。


 ちなみに、ドッキリに携わった人がブログにて「実はもうちょっとしたらドッキリされた人にご褒美があったので」とプレゼンしています。

今回のココロコネクトのドッキリ企画は、9月30日のイベントで完結する形になっていました。
その日に至るまで、市来くんが頑張り、各地のイベントなどで周りが協力し、
ご覧の皆様が応援してくださり、最後に皆で得る達成感と、頑張った市来くんへのご褒美。
それが、このドッキリ企画のゴールでした。

テラシマ流星群−寺島拓篤公式ブログ - ライブドアブログ

 ですが、受け手側が持ってる緊張感は既に「笑えない」のレベルになっていて「市来くんが気の毒」になっています。この状態からではもうご褒美が出たとしても笑いに繋がる緩和になることはないでしょう。フォローとしては失敗なのでは、という気がします。

余談

 下記のようなことが関係者の方から出ていました。この方々のことは寡聞にして存じないのですが、出演声優さんでしょうか。

この数日で、僕はインターネットを扱う事の難しさを改めて痛感しました。
不確定な情報が飛び交い、編集をされた言動が真実のように、
一部分だけを切り取ってそれが全部であるように伝わってしまう。
目で見て感情が伝わらない『文字』だけの情報は、人の思いや、信じる心までねじ曲げてしまう力を持っています。

テラシマ流星群−寺島拓篤公式ブログ - ライブドアブログ

何度も言いますが、ネットの情報が全てではありません。
他人が言ってた事が全てではありません。
自分の目で、耳で、ココロでちゃんと見て、自分自身で判断して下さい。
決して流されないでください。

『ココロコネクト』について|大亀あすかオフィシャルブログ「カメぶろぐ」Powered by Ameba

 確かに、インターネットの情報はすべてではありませんし、その裏側に事情というものはあるでしょう。私もこのブログやTwitterでの私の発言への反応を観ていて「いやー、違う違う! そういうこと言ってるんじゃないって!」と歯噛みすることは多々あります。伝わらないことのほうが多いですね。

 ただ、エンタテインメントとして公表されたものは「公表されたものがすべて」なんですよ。表現して公開して相手に伝わって感じられたものがすべて。エンタテインメントだけではなく、コミュニケーションも、相手に届いたものがすべてです。昔から「聞き間違いは言い手の粗相」というでしょう?

 受け取り手が多数かつ多様なインターネットですべてに対応することは不可能かとは思うのですけれどね。この辺りはインターネット時代の表現者の苦悩ということになるのでしょうか。


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