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じゃがめブログ

毒にはなるが薬にはならない、じゃがいもの芽のようなことだけを書き綴るブログです。

愛とは何か

 これは、簡単に言うと『受け入れること』なのではないかと考えています。

 他人を愛するという場合、それは「対象のすべてを受け入れること」と言えます。

 人には必ず欠点や問題や不足している部分があります。そのネガティブな部分を否定することなく一旦受け入れて、その上で問題があるというならコミュニケーションを取る。このネガティブな部分を受け入れずに良いところだけ受け入れようとすると、歪が発生します。もし親が子供を愛する時に「良い部分」だけを認めて「ダメな部分」については認めないのだとしたら、それって子供にとって窮屈にはならないでしょうか? そして親のほうも余裕がなくなってしまうのではないでしょうか?

 ポジティブであるためにネガティブな部分を黙殺しようとすると、そこが歪になってしまう。黙殺して直視できないようにするから、直すべきものも直せないということになるのです。

 そして、自己愛。自分を愛するという場合も、やはり「自分をすべて受け入れること」と言えます。
 自身を鑑みた時、長所もあれば欠点もあるはずです。不足している部分や受け入れがたい性癖などもあろうと思います。それらネガティブを一旦受け入れて、すべてオールオーケーと、まずそうしてやるところが自己愛の始まりなのではないか、と考えています。そうして受け入れた上で、良くしたい・変えたいと思う部分を変えていけば良いというわけです。

 私はこの意味において「自己愛」を持つべきだと考えています。まずは自分を受け入れることができれば、他人にも同じようにしていけるはずです。逆に、自分の長所・欠点・個性を受け入れられない者が他人を受け入れることは難しいのではないでしょうか。

 自分のことを受け入れる、そして他人のことを受け入れる。それがまず『愛』の根本ではないかと考えます。

 よく「自己愛」と「利己主義」がごっちゃになって語られることがありますが、「利己主義」は「自分の利益のみを重視して他者の利益を無視するもの」であり「優先順位を付けた時に『自分』を絶対基準にするもの」です。根本的にまったく違うもの。そこを注意したい。

 他人に対して余裕が無い、ネガティブの熱病で苦しんでしまう、そんなことは誰しもあると思います。それは、もしかしたら自分の中に『愛』が不足しているときなのかも知れません。そういうときはまず「自分は自分を正しく愛せているか」「自己愛だと思っていることは利己主義ではないか」と考えてみること。その上で「他人はその人のあるがままで良いんだ」と考えてみてはどうか、そんな風に思うのです。