じゃがめブログ

毒にはなるが薬にはならない、じゃがいもの芽のようなことだけを書き綴るブログです。

自称ツッコミはスルーするのが良いのでは、の話

オードリー・若林「評論家きどりばかりのツイッター」 | 世界は数字で出来ている

 会話に関して言えば、ツッコミに回りたがるというのは、関東の風習な気がしています*1。私が上京して一番最初に受けた会話の洗礼は「おっ、関西から来たの? ボケてみてよ、おれが面白く突っ込んでやるから」というスタンスの振り方とツッコミでしたので。残念がらそれが面白かったことは一回もなかったんですが。

 なぜそうなるかと推測するに、ボケが「自分を落とす」のに対してツッコミが「その場を動かない」というのが一般的な認識になってるからなんじゃあないかと思い至りました。ボケが自分を落としたり敢えて間違ったことを言い、ツッコミがそれを正しく戻す。だからツッコミは自分を落す必要がなく、相対的に上がる。また正しいことを言えばいいだけなので技量も必要がない。そういう認識。簡単そうにみえるんですよね。だから手軽にやろうとする。

 ではツッコミってそうなのかというと、そうではない。一番ベタなツッコミの役割は、ボケ(現象の誤り・違和感)に的確に気付いて、解りやすい形で見聴きしている人に伝えることです。ボケが生み出した違和感、異常事態をスパーンと埋めることで見聞きしている人の中に快感を作られるわけです。言ってしまえば同時通訳みたいなもので、ボケの世界観を観てる人に翻訳して伝えるという仕事をしている。「間違いを指摘する」こととイコールではありません*2

 このような笑いが生まれる理屈については、桂枝雀さんが興味深いことを語っておられます。もちろん、枝雀さんの語られることの方が圧倒的に理に適っていて面白いものですが、もし興味があれば読んでみて下さい。
 らくごDE枝雀 (ちくま文庫)

 閑話休題。このようなツッコミに関する妙な認識が生まれたのは、漫才の表面的な浸透によるような気がします。こと、お笑いに関しては*3。割りと大きな風潮なので、そう簡単に変わることもないだろうなあ、という印象です。


 この元エントリーで述べられている「ツッコミ」には、単に「誤りを指摘したがる」というのも含まれているのですが、どちらに関しても、自分を落とさず他人を落として優位性を演出するゲームをやってるというだけです。そういう人達は日常生活の中にも出てきますし、はてブ開けば一山いくらで居ますので、Twitterに限ったことでもないと思います。
 本来であればそんなゲームに付き合う必要もないのですが、有名人になればなるほどどんどん顕在化していくというのも確かでしょう。ことサブカルに関して言えば、自分の優位性を保つために知識自慢をする人が多くて、更にそういう人は演者(役者・芸人・歌手など)にも同じ振る舞いをするんですね。よって、今後は積極的なスルーをしていくというのが精神衛生上良いのでは、などと思いましたが、いかがでしょうか。

*1:いや、関東と関西(大阪・兵庫)以外で生活したことがないので、関東以外でもそうだよ、という意見もあるかも知れないんですが。

*2:TV番組『小杉&後藤のなんでやねん×なんでやねん』をご覧になった方は、番組中で狩野英孝さんが見せた漫才におけるツッコミがこの「間違いを指摘する」だけだったことにお気づきになったかも知れません。じゃあそれも笑いになるじゃないかという意見もあるかも知れませんが、あの漫才はフット後藤の「何がおもろいねん」で初めて笑いになったものなので、一般会話でそれはちょっと難しいと思います。

*3:余談ですけど、エンタ芸のような「誰でも真似できるフレーズ」が受けるのも、手軽に会話の中に入れられるからでしょうね。

ココロコネクトのドッキリが失敗した理由をお笑い理論から考えてみる

最近ブームになってるもののひとつに『ココロコネクトのドッキリ』があるようでして

 このココロコネクトというのはアニメ作品らしく、作品のスタッフが声優に仕掛けたドッキリが酷いのではないかということで話題になっております。申し訳ないのですが、このココロコネクトを未見のままドッキリについて考えてみます。

 今回のドッキリの経緯についてはこちらのサイトに詳しいようです。
【パワハラ】アニメココロコネクトのドッキリ企画が鬼畜過ぎると話題に【まとめwiki】 - トップページ


 要するに、一旦持ち上げておいて落すというのが酷い、ということですね。幾つかのサイト(こことかこことか)でもそのような結論。

 世のご意見では「一旦下げてから上げるならよかったのに」ということなんですけど、まあそうなんですよね。この辺、お笑い理論として既に提唱されている方がいるので、その方面から考えてみます。

桂枝雀さんのお笑い理論『緊張と緩和』

 桂枝雀さんが生前にお笑い理論を体系立てていて、その中に『緊張と緩和』というものがあります。緊張させておいてホッと緩和することで思わず笑いが生まれる。これが逆では笑いが生まれにくい。また、そこそこ大きな緊張状態から緩和状態に一気に持っていくことで、安堵と共に笑いが起きるという。
 更に桂枝雀さんのお笑い理論でいうと、笑いが起こるには「他人のちょっとした困り」が良いと言います。困るというのは緊張です。自分が困るという緊張は強すぎて、緩和に結びつかず笑いになりにくい。自分は困っていなくて他人は困っていると、それは他人ごとなので緩和になる。ただし、他人ごととはいえ人間はどこかで他人と自分を重ねるため、大きすぎる困りごとではこれまた緊張が勝ってしまって「笑い事ではない」となってしまう。だから「他人のちょっとした困り」がちょうど良い。そういう理屈です。

 枝雀さんはこの他にも慧眼でお笑いを分析していますが、それについてはまた今度。実によく考えられた理論だと私は思っております。
詳しく知りたい方には、こちらの本をお勧めします→ Amazon.co.jp: らくごDE枝雀 (ちくま文庫): 桂 枝雀: 本


 で、そういったお笑いの理論を踏まえた上で今回のこの件を観ると、上記の「緊張と緩和」「他人のちょっとした困り」の2つで反していることが解ります。緩和(オーディション合格)からの緊張(落選していた事実)に流れたことによって「笑い事ではない」と思わせ、困りごとが大きいために「気の毒に」と思わせた。

 これではまず笑いが起きるはずもありません。この時点でドッキリ大失敗というわけです。

 笑いが起きず、それでいて個人を貶めたような格好になっているわけですから、これはもう誰も幸せにならないですよね。少なくとも、ドッキリ仕掛けられた方と、それを観ていた方としては。だから炎上するということになってしまったと、そういうことです。
 お笑いの理論から観たドッキリの失敗の理由はこんなところです。

じゃあなんでこんなことになったのかということなんですけれど

 あくまで推測の域からは出ないものなんですけれど、私としては「笑いについての理解がない人がテレビの上辺だけ真似た」のが大きな原因ではないのかなあと捉えています。

 なんでもそうなんですけど、基本を抑えないでいて個性の強いものを真似しようとすると、その悪いところばかりを吸収してしまいます。例えば、歌が下手な人が桑田佳祐さんやミスチル櫻井さんの歌い方のアクの強いところを観て「だから上手いんだ」とばかりに吸収したとして、じゃあ歌が上手くなるかというと、まずなりません。変な癖がつくだけです。

 ドッキリの件も同じで「周到な環境を作って人を騙して公衆の面前でネタばらしをする」という部分をドッキリの要素だと考えてやったのでしょう。だけど、実際に重要な要素が手落ちになっていて、更にドッキリされた人へのフォローもおろそかだったので、残念な結果になったと。原因をたどっていくと、そういうところに行き着くのではないでしょうか。

 お笑いの理論、ひいては人間の理解を深め、誰もが笑えるような配慮をしていればこのようなことにはならなんだのでは、と、そんな印象を受けました。みなさんいかがでしょう。


 ちなみに、ドッキリに携わった人がブログにて「実はもうちょっとしたらドッキリされた人にご褒美があったので」とプレゼンしています。

今回のココロコネクトのドッキリ企画は、9月30日のイベントで完結する形になっていました。
その日に至るまで、市来くんが頑張り、各地のイベントなどで周りが協力し、
ご覧の皆様が応援してくださり、最後に皆で得る達成感と、頑張った市来くんへのご褒美。
それが、このドッキリ企画のゴールでした。

テラシマ流星群−寺島拓篤公式ブログ - ライブドアブログ

 ですが、受け手側が持ってる緊張感は既に「笑えない」のレベルになっていて「市来くんが気の毒」になっています。この状態からではもうご褒美が出たとしても笑いに繋がる緩和になることはないでしょう。フォローとしては失敗なのでは、という気がします。

余談

 下記のようなことが関係者の方から出ていました。この方々のことは寡聞にして存じないのですが、出演声優さんでしょうか。

この数日で、僕はインターネットを扱う事の難しさを改めて痛感しました。
不確定な情報が飛び交い、編集をされた言動が真実のように、
一部分だけを切り取ってそれが全部であるように伝わってしまう。
目で見て感情が伝わらない『文字』だけの情報は、人の思いや、信じる心までねじ曲げてしまう力を持っています。

テラシマ流星群−寺島拓篤公式ブログ - ライブドアブログ

何度も言いますが、ネットの情報が全てではありません。
他人が言ってた事が全てではありません。
自分の目で、耳で、ココロでちゃんと見て、自分自身で判断して下さい。
決して流されないでください。

『ココロコネクト』について|大亀あすかオフィシャルブログ「カメぶろぐ」Powered by Ameba

 確かに、インターネットの情報はすべてではありませんし、その裏側に事情というものはあるでしょう。私もこのブログやTwitterでの私の発言への反応を観ていて「いやー、違う違う! そういうこと言ってるんじゃないって!」と歯噛みすることは多々あります。伝わらないことのほうが多いですね。

 ただ、エンタテインメントとして公表されたものは「公表されたものがすべて」なんですよ。表現して公開して相手に伝わって感じられたものがすべて。エンタテインメントだけではなく、コミュニケーションも、相手に届いたものがすべてです。昔から「聞き間違いは言い手の粗相」というでしょう?

 受け取り手が多数かつ多様なインターネットですべてに対応することは不可能かとは思うのですけれどね。この辺りはインターネット時代の表現者の苦悩ということになるのでしょうか。


らくごDE枝雀 (ちくま文庫)

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まさに発展途上といったアイドル像を求めるなら稲垣早希さんはどうでしょう?

最近、弊ブログに『可愛い 女芸人』のキーワードで来る方が多いので。

どうでしょうか。この振り付けの残念さ加減とか可愛いじゃないですか。あと、メイクの微妙さも良いですね。彼女はこういうメイクをしないほうが可愛いと思うのだけど、テレビで観るといつもこんな感じになってますよね。何故なんだろう。

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M-1グランプリ2010 決勝大会 感想


M-1グランプリ、2010年大会をもって無事に10年間の歴史に幕をおろしました。
「結成10年以内のコンビのみ参加可能」という制約上、どうしてもヒーローとなるコンビが枯渇していくことになります。ここ数年で大会の魅力が薄れていきつつあったのも事実。終了するという判断は残念ですが、やむないのかも知れません。

そんなM-1グランプリですが、最後の大会でこれほど見せてくれるか、と大盛り上がり。大きくスベったユニットもなく、またヒーローも生まれ、結果、大団円。最後にふさわしい大会だったと思います。

それでは、各コンビとネタについて、Twitterに呟いたことを振り返りつつ残していきたいと思います。

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千原兄弟・千原せいじに、もう少し脚光が当たることを願う

千原兄弟って言うと、パッと頭に浮かんでくるのはやっぱりジュニアの方なのかな?という感じはしますよね。テレビで活躍している量がかなり違いますから。っていうか千原せいじがテレビに出てるのがちょっと少ない気がするw
そういう実態を受けて、千原兄弟=ジュニア(+せいじ)みたいな見え方をするのは仕方が無いかな、と思うこともあります。けど、ちょっと見方を変えて欲しいなあ、とも思う。せいじは面白いんですよ。けどテレビではあんまり使われていない。それは何故か?今回はそんなお話です。

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M-1グランプリ2009 最終決戦の笑い飯はカッコ悪かったのか?

笑い飯の2人が最終決戦のネタをどうやって選び、どういう気持ちで臨んだのか。そんなのは本人以外解らないわけでね。こちらが幾らでも想像を膨らますことは出来ますけど。その辺に対して書かれてブログが有ったので、引き合いに出しつつ思うことを書くエントリーです。

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