じゃがめブログ

毒にはなるが薬にはならない、じゃがいもの芽のようなことだけを書き綴るブログです。

読書の価値を上げるために

 私、以前はそれなりに本を読んでいたんです。往復の通勤時間1時間半程度と夜の時間を読書に当てて、ビジネス書を2日1冊程度とそれに小説と軽いエッセイ、その他新書くらいは読んでいました。必要に応じて各技術書。そんなに少ない方ではないと思います。
 が、最近は全然読んでいませんでした。小説などの娯楽作品はともかく、特にその傾向が顕著なのはビジネス書。ほとんど読んでいない。
 何故かというと、本がダメになっていってるというわけでもつまらなくなっていってる訳でもなく、自分自身が成長して読む必要が無くなったという訳でもないです。むしろ逆。自分が成長していないことに気付いたから。本を読むのは知識を得るためな訳ですが、それが全然なされていない、ということにぶち当たったからです。
 人は観たいものしか見えない、とは良く言います。本を読むときも同様で、観たいと思ったものしか見えなくなってしまっている、ということに行き当たったのです。つまり、多読によって同調者探ししてるだけ、という。「そうそう、この本の作者は自分の言いたいことと同じ事を言っている!」というのを探すために本を読んでしまっている、という状態。もうちょっと核心部分に近づけると「この本の作者は、さっき自分が本で仕入れた知識と同じ事を言っている!」です。多読をすると細かく読まなくなるので、どうしてもそういう目を引く部分だけ読んでしまうのです。
 なので、幾ら本を読んでも「私の考えていることは他の多くの本で裏付けされている!」という方向に進むだけで、新しい知識を得てないという穴にポッコリとハマっている状態だった訳です。もちろん意味が全く無いわけではないです。多くの人が同じように言っていることは割と共通して価値があることだったりもしますから、そういうことの抽出には意味がある。でもあまりやりこみすぎるのは時間の無駄だな、と感じました。
 そこから脱却するためには、一旦考えをリセットする必要がありました。「自分が知っていることは本当に山ほどある様々な見方のうちのひとつであり、自分が知らない見方を得るために本を読む」ということを、知識ではなく感覚で得られるようになる必要があると考えたのです。また、知識がフィルターとなって新しい知識を手に入れられてないのであれば、知識に対して検証することで見識のような「手についたもの」にする必要がある、とも考えました。最近ようやくそれっぽいところに感覚が移行しつつあるので、再び本を読もうかなあ*1と考えています。
 多読はしているけれど知識が増えない、という人は同じような穴にハマりこんでいるのかも知れません。「音楽知識は耳垢でしかない、溜まれば音楽を楽しめなくなる」と言いますが、ちょっと近しいかも知れませんね。

今日のまとめメモ(読書の価値を上げるために)
・知識を検証して手についたものにする
・本で得た知識は「あくまでも物事の一側面」という捉え方をする
・本から知識を得ていないと感じたら、休息期間を取る。知識が手についておらず見方が偏っている可能性が高いので、客観評価をする。

*1:しかししばらく読んでないからもう読書自体が良い運動になりそう……w