もっとも近くにいる裏切らない応援者
使い古された慣用表現で「努力は裏切らない」と言いますね。それってどういうことなの? と、もし子供に聴かれたら、どう答えたらいいんでしょうか。
何かに打ち込んだことがある人なら解ると思のですが、幾ら努力しても結果がついてこないことはあります。競技スポーツであれば、すべての人が努力をして挑んでいるのに優勝するのは一組です。記録スポーツならば、必ず新しい記録が出るとは限らずその時のレコードホルダーは常に一組。幾ら勉強してもトップの成績を取れるのはごく一部。努力をすれば結果はその努力に見合うように近づいて行くけれど、必ずしも努力と結果は一致しないものです。
では、努力というのは無駄なんでしょうか? やっても結果が出ないかも知れない、むしろ出ないことが多いという事は、努力に裏切られてるんでは? ……私は、そんなことはないと思っています。
人間生きていると、どうしても苦境に立たされることはあります。何かに挑もうとして、成し遂げるかどうか不安になるときもあります。もう少しのふんばりが効くかどうか不安なときもあります。そういうとき、自分の一番近くにいて誰よりも自分を応援してくれるのは、過去の、努力をした自分です。「お前、頑張ってたじゃん。やれることやったから、大丈夫だよ」と。
自らの能力が足りないという理由で失敗して落ち込み、自信を失うこともあります。そんなときも、「やれるだけやって失敗したんだから仕方ないよ」と努力をした自分が言ってくれる。
結局のところ、努力をするというのは、そうやって未来に自分のことを励ましてくれる存在をつくるというのが一番大きい目的なんではないでしょうか。努力とは、結果を出してくれる魔法の道具ではなく、自分を励ましてくれる最も近い応援者なのではないでしょうか。そして、その応援者は何年経っても裏切らない。
もうひとつ。何か行動すれば結果がついてきますが、努力したときとしてないときとでは感じ方が違うものです。宝くじで百万円を手に入れた時と、努力して大会に優勝して手に入れるのでは結果のお金は同じでも感じ方は同じでしょうか? 努力して得たときの方が重みがあるんじゃないでしょうか。
もちろん、努力をすればするほど、失敗した・思いを遂げられなかったときの悔しさや悲しみは強くなります。ですが、じゃあ何の努力もなく失敗してそれで傷が浅ければ、それは幸せでしょうか? 人生がメリハリの無い薄味なものになりませんか?
もし努力の意義に悩む子供に「努力は裏切らないってどういうこと? 本当?」と問われたら、私は「本当だよ」と答えたい。努力は無駄ではないよ。人生を平坦じゃない面白いものにしてくれて、大人になっていざというときに励ましてくれる応援者になるよ、そいつは裏切らないんだ、と。