じゃがめブログ

毒にはなるが薬にはならない、じゃがいもの芽のようなことだけを書き綴るブログです。

『善意』という言葉を使いたがる人の醜悪さはどこから生まれるのか

Twitter上にて、血液が足りないので献血を!というよくあるチェーンメールのようなPOSTがRT祭されていました。RTってのは、まあ転載みたいなもんだと思ってください。で、そのフェスタの後のPOSTで「善意でPOSTしたことは良かったと信じている!」というような発言が大量ふぁぼられしているのを見て、ゾッとしたのでエントリーするディービーです、こんばんは。朝読んでくれてる人はおはようこざいます。
『善意』という言葉を使いたがる人の醜悪さはどこから生まれるのか。結論からいうと、『善意』というラベルを『欲求』に貼りつけることで自分を正当化しようと言う自己欺瞞からです。

人間の行動の動機は、基本的に欲求から来るものです。やりたいから、やる。やりたくないからやらない。突き詰めればシンプルなところに行き着く。動機は欲求です。その欲求に名前をつけると言うのが詩人さんたちの仕事なわけ。『愛』だとか『夢』だとかね。『善意』という言葉を使うと言うのは、言い換えれば「欲求に『善意』と名前を付けている」のに他ならない。

他ならない、のだけど、これが言葉の不思議なところで、『善意』ってつけるだけで、それが人として正しいもののように見えてくるわけ。否定できない。何故かというと、『善意』と言うのはスタンスであって論理ではないから。更に、『善意』とは正しいもの・崇高なものであるという思い込みもある。

例えば『善意』からの行動で他人に迷惑を掛けたとしても「これは善意からの行動でしたが、迷惑を掛けたことに関してはお詫びいたします」としておけば、行動は非難されるけど動機・欲求は非難できない。発言者にとっても。つまり、精神的に安定した立場を作れる。俺は間違ってないぞ、とね。このやりかたが、とてつもなく自己欺瞞的で醜悪なんです。

また、『善意』が動機だと思うことで、失敗に対する反省が促されなくなる。というか思考停止するのもまた厄介なところ。『善意』でやったんだから仕方ないよね、というパターン。私が見る限りでは、『善意』という言葉を乱用する人はこのパターンに陥りやすい。そして、そのまま思考停止して、同じことを繰り返すのです。チェーンメールや、『善意』を食い物にする犯罪が無くならないのは何故か?その答えはその辺にあると思いませんか?そしてチェーンメールなんかで他人に迷惑をかけても一切反省しない人が、果たして世間的に善なる存在だろうか?

今回の騒動で、『善意』だなんだかんだと言葉を変えて放つ人ほど献血RTに踊らされてるようでした。その献血RTダンスした人の中で何人が「じゃあ実際に血液が不足する事態が起こったらどうするのが最適か」をTwitterに投げかけたか?問題解決のためのホームページやコミュニティを作ろうとし、実際に作ったか?運用しようとしたか?

そこら辺に、能力を持っていてかつ思慮ある人と、自分の欲求に『善意』とラベルを貼りつけるだけで満足してしまう人の差がある。その差に気付けず同等だと思い込んでしまうあたりにまた醜悪さが宿るのです。