差別とレッテルを貼って声高に叫んでしまう前に一旦考えておきたいこと
Webで色々と記事を観ていると、性差別の問題にもたまにぶつかります。
色々とアプローチはあると思いますが「これって生物的に男性女性の違い故にどうしようもないことだよね」という話題に対して性差別を訴えるのは女性のほうが圧倒的に多いイメージがあります。でもそれを差別と言い始めたら問題が爼上に乗らないのではないか、と思うこともしばしば。「理解できない・解決が難しい問題に出会った時に蓋をして『どうして私が』と嘆き感情を高ぶらせる」という人は性別関わらず存在します。それが女性の場合は「生物的なメリット・デメリット」という部分に集まるのかも知れません*1。
「スポーツにおいて、黒人と黄色人種だと黒人には体格とバネで勝てない、だから黄色人種である我々は体の使い方や戦略で補おう」というのは黄色人種差別になるんでしょうか? なるのかも知れませんね。「生まれもったどうしようもない資質についての追求」なので。でもこの話をしないと黄色人種はスポーツで世界の舞台に立てないかも知れない。
「生まれ持ったどうしようもないこと」で不当に扱いを変える*2ことは『差別』だとは思いますが、でも「どうしようもないこと」という差についてはなくならなりません。
出産の話しや身体能力・考え方や感性の話しはそもそも性差がある事ですから、その差の部分に注目して話を進めれば、どう話を進めても「差別だ」とレッテルを貼ることはできる訳です。そしてレッテル貼って声高に「私たちは被害者だ!」と叫んだらその時点で話しは終わる。そんなことをしても問題はなんにも解決しない。
解決しなくていいという話しなのかも知れないですね。問題を解決することよりも、その問題に眼を向けることがイヤだという感覚もあるのかも知れません。それなら『差別』と総てにレッテルを張って封印してしまうのも良いのかも知れません。臭いものには蓋というし。別にそれでもいいんですけど、ただ覚えておくべきなのは、そこで堂々巡りしているっていうことです。
理解したくないことを理解しなくていいようにレッテルを貼ることはよくあると思います。ワイドショーの造語などがそうでしょうか。『女子力』とか『オタク』とかね。そして貼ったレッテルを守ったり攻撃したら、それでもうレッテルの裏側のことは理解しなくてもよくなる。そのままのノリで「差別です、虐げられています」とだけ主張してしまうと、その裏にある問題は治らなくなります。水も空気も通さない絆創膏は中の傷が治らないのと同じで、実に通気性が悪い話です。
問題をひとつずつ共有して、変えることができないのではれば「じゃあどうなってたらベターでしょう?」と考えて、そっちに向けて歩み寄るということが必要ですよね。「私はこんなにつらいんだからお前らこうしろ!」と言われて、そうですねやりましょう、となるかと言われたら、ならないんじゃあないでしょうか? 環境的に不当なこともあるでしょう。嫌な人もいるし、変な風習もあるし、お互いが理解してないから酷いことも知らず言う可能性もある。そういうのに対していきなりキレても、「私たちは理解されないんだ……」と言っても始まらない。
『差別』だとレッテルを貼って叫びだす前に、一度「本当にそれは不当な偏見によるものか」「お互いに状況を共有しあえているか」を考える一手間があったほうがいいのではないでしょうか。近しい存在でもお互いを理解し合うことは格別難しいことです。性別も距離も何もかも遠い人が自分のつらさや境遇を解るわけがないのですから。
追記(2012/03/10 18:00)
注釈にて「国籍と選挙権」に関して記述をしていますが、これが差別かどうかについては一考の必要があるというご指摘をいただきました。この件に関して、浅慮であったことをお詫びいたします。また本エントリーの主旨とは異なっており、難しい問題でもありますので、別途考察の場を設けたいと思います。