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じゃがめブログ

毒にはなるが薬にはならない、じゃがいもの芽のようなことだけを書き綴るブログです。

ゲームとはなんなのか、ソーシャルゲームとはなんなのか?

雑記

 ゲームとはなんなのか、ということについて考えることがあります。まとまらない話なので、バラっと書きます。

ゲームの定義

 私にとってのですが、ゲームの定義はこうです。

楽しく遊ぶためのルールとゴール

 単純ですね。

 ボードゲームなんかは解りやすいですね。ルールがあって、それに則って頭を使う。パズルゲームなんかはルールがミソですよね。「4つ同じ色をくっつけたら消える」「1マスに1色のユニットを配置できる」とかのルールの組み合わせと「画面上のユニットをすべて消す」などのゴールがゲームそのものとも言えます。外の遊びである鬼ごっこは「鬼に触れられたら鬼になる」「鬼は人に触れると鬼でなくなる」というルールがあって「鬼でなくなる」というゴールがある。テレビゲームなんかも基本的にはそう、ルールがあって条件を満たすというのが本分で、そこにRPGなら物語性だったり映像や音楽といったものが付帯してくるし、複雑なルールや細かなゴールを設けることができるようになっているという。子供の頃はなんでも勝手にルールとゴールを作って遊んでいたし、そのルールを作れる子供が人気者だったり遊び上手だったりしたものです。

 ムービーゲームが出た頃には「こんなものはゲームではない」と批判する人も多くいましたが、その気持も解らなくはないです。確かに、ムービーシーンだけだとゲームではないですね。だって、ムービーにはルールもゴールもないですから。ですが、実際にはゲーム本編があって目指すものがあって、そこにルールがある。だから、そういうのもやっぱりゲームではある。ゲームを盛り上げるための映像や音楽といった要素のひとつとしてムービーがある。とはいえバランスの問題で、ゲーム時間の9割ムービーとかになると、これはちょっとどうかな、という気もしますけれどね。

 じゃあ、最近のメインストリームとなってるあのジャンルはどうなのか、という話。

ルールの前での対等さ

 先程の定義のところでは触れてないのですが、もうひとつ定義があります。

ルールの前に人は平等である

 これ。
 もちろん、運の要素が絡みますから、完全に平等と言うわけでは無いですね。ランダム性がないと「毎回同じ事をする」ということになりますから。

 麻雀なんかはそうですね。配牌自体は運要素ですが、そこから先は決まったルールに則っている。カードゲームもテレビゲームもボードゲームもそう。運要素が配牌なのか初期手札なのかサイコロなのか乱数なのかの差こそあれ。

 それらと比較すると、ソーシャルゲーム、ひいてはパチンコもですけれども、これらはやっぱりゲームではないんですね。ゲームと名は付いていますけれど。

 最初の定義はある程度満たしていて、ルールとゴールはあるのかも知れない。ですが、平等ではないんですね。平等ではないというのは、お金を払った分だけ有利になる人がいて、同じプレイヤーでも金持ちと貧乏人が平等ではない、ということではありません。そんなの言い始めたらマジック・ザ・ギャザリングやら遊戯王やらどうなんだってなりますから。

 そうではなくて、プレイヤーとディーラーが平等ではない、と。

 ソーシャルゲームなんかでは、実は裏側で値の調整というのができるようになってます。負けが込んでる人には勝たせるために、乱数や支払った課金とはまた別に「快楽を覚えさせる」ための調整が。

 それって、まったく平等ではないし、そもそもルール自体を破壊している訳です。

 武器屋で武器を買うには100G掛かるが、ではどうやって稼ごうか、という「どうやって」を考えて実行する部分がゲームな訳ですけれど、そこで「こいつ心折れそうだから50Gで買えるように一瞬だけ調整してやろう」とかされると、ルールが破壊されることで「どうやって」という一時ゴールが失われちゃうわけです。それは何が楽しいのか、となる。本当にゲームなのか?

 そういった「偶発ではない任意の調整」に名前をつけてCMで広めるなどしてごまかした辺りは、実に上手いなと思いますけれども。

快楽の直接注入

 前述の通り、撒き餌としてディーラーが調整をすることができるゲームというのは、快楽をコントロールされやすいものです。
 ラットの実験で、こういう話があります。

 ラット群Aには、スイッチを押すと毎回餌が出るようにした。
 ラット群Bには、スイッチを押すと何度かに一度餌が出るようにした。

 結果、ラット群Aは必要な分だけスイッチを押すようになった。ラットB群は必要もないのに押し続けた。

 このラットの実験がどこまで人間に適用できるかは解りませんが、しかしそれにしてもソーシャルゲームやパチンコで見たことのある構図だと思いませんか。

 ソーシャルゲームやパチンコにハマる人は、この快楽コントローラーをディーラーに完全に握られていると。それはそれで悪いことではないですけれどね。今が楽しければそれがいいという考えはあるでしょう。でも、本当にそれでいいんですか?


 そういう、不足してきたタイミングで丁度良く必要な快楽を直接的に与えられるという、快楽のブロイラーになることが、果たして良いのか? そして、快楽を得るためだけの道具となったものがゲームとして正常なのか? 快楽も、栄養を伴わず得てしまっては純度が上がりすぎてしまって、麻薬のような劇薬になるんではないか?


 そういうことを考えていくと、今のソーシャルゲーム全盛の風潮に対して疑問を抱かざるを得ないな、と思うのです。


 とは言え、それで経済が回ってるというところもありますのでね。自分から関わりの遠い人がバッカスカとソーシャルゲームなどにお金を落として経済が回ることに関してはやぶさかではありません。