批判について
以前に、批判について書きました。→ 人を批判することに抵抗がない人 - じゃがめブログ
そのはてなブックマークでの反応から「批判」についての前提が違うのかもと思い、このエントリーを書きます。
まず、批判とは何か。
1 物事に検討を加えて、判定・評価すること。「事の適否を―する」「―力を養う」
2 人の言動・仕事などの誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして論じること。「周囲の―を受ける」「政府を―する」
3 哲学で、認識・学説の基盤を原理的に研究し、その成立する条件などを明らかにすること。
以上、大辞泉より引用です。
引用するまでもないのですが*1、批判するというのは、他人の何がしかに対して自分の意見を顕にすることです*2。相手にとって肯定的・否定的どちらも含むもの、つまり相手にとって変化を起こしうるもの、と捉えるのが良いと思います。つまりは、何かに変化を望んでやる場合が一番多いわけです。特に、やはり2の意味で使われていることが多い。
何か意見が発展したり展開するためには一度否定されたほうが良い局面というのは当然あります。論を戦わせるという場合にはそうなります。なので、批判するということがダメ、というわけではないです*3。
ただ、だからといって「否定しなければ状況を改善できないか」というと、そういうわけでもない。『北風と太陽』の例を持ち出すまでもないですが、相手を強く叩き潰すように否定するような真似を避けて、こちらのほうが良いのではないかという物を提示して相手に気づかせる方法もあるわけです。ところが、批判というものを「否定することによって改善するから良いものだ」という認識を持つと、「否定しなくても良いところもある」ということに気付きづらくなる。そして、その心理的防壁の表れが「相手のことを考えている」などという言葉なのだと思います。
「相手のことを考えている」というのは「批判して一度否定したほうが相手にとって良い変化になる」という心理から出ているのでしょう。勿論、批判して一度相手を叩いたほうがいい局面もありますが、そうでないこともある。まずはその認識が大事なのです。相手にとって良い変化になるか、他に「寄り添うような提案」をすることはできないか。そのワンクッションが、言葉を変えるわけです。
批判のみならず、言葉を遣って人に意見を伝えたり異を唱えるからには、常にその誰かを傷つける可能性があるわけです*4。それは、医者の外科手術と似ています。良くするために一度悪いところを含めて切る必要がある。そういう局面があるのはやはり確かなのです。ただ、だからといって無闇矢鱈に切りつけるのまでが正当化されるでしょうか?
功利的な発展を促す批判を、どれくらいの人が成しているのか、外科手術をおこなえるだけの見識と技術を持って取り組んでいる人がどれくらいいるのか、かなり疑問に思います。自分が批判をする時は、そこについて心を砕く必要があると感じています。
批判をする前に「ここは切ったほうが良い」「ここは切らなくてもアドバイスの方がいい」「そもそも直さなくていい」などと考える時間が必要です。あくまで私の感覚ですが、殆どの場合「直さなくていい」ですし、それ以外の場合も「アドバイスだけでいい」ことが殆どで、「切らなければならない」ということは圧倒的に少ないように思います。