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じゃがめブログ

毒にはなるが薬にはならない、じゃがいもの芽のようなことだけを書き綴るブログです。

もしも、空を飛べなかったら

 こう言うのはあんまり好きじゃないな、と彼は言った。
 何が? と、私が問うと、彼は、それ、と言ってテレビ画面を指さした。少しいらいらした感じだった。画面の向こうでは、テレビタレントが揃いのシャツを着て、同じシャツを着たタレントがマラソンしているのを、応援している。丸一日を掛けてどこかを走っているらしい。毎年やっている。
 時間は丑三つ時もとうに過ぎていた。暑さを凌ぐため窓を開け放ち、酒を片手に、いつでも寝られるようにとマットの上でごろごろとしていた。それまで遊んでいたテレビゲームを片付ける。テレビの番組はすべて終わっていたらしく、マラソン映像だけがチャンネルに合った。

 このテレビが? 国産メーカーの有名工場産で高かったんだけど、と冗談めかす。彼はそれに少し笑いを浮かべ、いや、テレビじゃなくて、その番組がな、と言った。彼の掌でアルミニウムの缶が高い音を立ててひしゃげる。
 気楽なもんだと思うよ、と彼は新しいビールの缶に手を伸ばした。ゴールも期間も決まってることは、そんなに大変なことじゃない、と言う。
 彼の指が、細い金属の隙間から空気と液体が洩れるような、そんな音を立てる。何時の間にか冷蔵庫から持ち出していたらしいビールに手を付ける。
 そりゃあそうかも知れないけど、これってチャリティの番組だろ。マラソンは主体じゃないじゃん。そう言うと彼は首を軽く振った。いや、そういうことなんだよ、という。
 テレビの映像はマラソンを一時離れ、手の動きが不自然な少女を映し出していた。少女が、動かしづらい手を使って何かアーティスティックなものを創ろうとしている、ということらしい。
 障害者の人が頑張ってる姿を見せることで同情を買うというやり方が気に食わないのだろうか、と思う。事実、そういう人は結構、居る。そうなの? と聴くと、それもまた違う、と彼は答えた。まだ少し渋い顔をしていた。
 それさ、その少女もそうなんだけど。

 その少女って、今凄く頑張ってるように見えるじゃん? 手に障害を抱えて、それでも今一生懸命になってるような感じがするじゃん。きっとそう思ってる人は一杯いる。けどさ、実際は違う訳でしょ。別にこの子も、次に出てくる、何らかの障害を抱えた人も、別に夏場だけ頑張ってるわけじゃない。だろ? だけど、こうやってテレビでこの部分だけ特別にピックアップすると、違って見えるようになってくる。極端に言うと、この子たちが夏場にだけ頑張ってるように感じてくる。で、このテレビを観てる人は、この今一瞬は同情するんだけど、またすぐ忘れる。でもそれで良いことになってる。今一瞬、同情するから。一瞬だけ同情したから、もう無関心でも良いってことになる。愛の反対は無関心だなんて言うけど、その無関心の免罪符のためにこの同情があるんじゃないか、と思う。このテレビを見た人の中で、継続してずっと障害について考えてる人って、かなり限られてるだろ。それは仕方がないことなんだ。ずっと覚えてるなんて出来ないし、自分たちの生活があるからな。むしろ忘れてるほうが普通。だけど、忘れてる、ってことを、今同情したのでそれでオッケー、って帳消しにするような感覚ってのはどうなんだろうな。それは好ましいと言えるか?

 ふーん、難しいこと考えてんのね、と私が言うと、彼は頭を掻いた。そしてビールを一気に煽る。別に難しくはないだろ、と彼は言う。確かに、この感動的な映像でみんなの頭が麻痺してるというのは、あるのかも知れない。テレビには、いかにも悲壮なものを前にしたような面持ちで障害者の少女を見つめるテレビタレントが並んでいた。一緒に過ごした時間があるから障害を持った人の気持ちが痛いくらい解る、と若く二枚目のテレビタレントが涙ながらに語る。去年にもまったく同じ映像を見たような気がするが、気のせいだろうか。

 本当に解るのか、ってのは、やっぱり疑問だよな、と彼が言う。あくまでもしもの話だけど、と、言いながらまた新しい缶を開けようとしている。飲むの早過ぎるんじゃない? それうちの冷蔵庫から出してるよね? そう言うと彼はイタズラがバレた少年のような顔をする。

 そう、で、あくまでもしもの話なんだけど。もしも、空が飛べなかったら、どうだろう。……ちょっと違うな。自分以外の人間がみんな空を飛べるように進化した世界で、自分だけが空を飛べなかったら、そのときの自分はどう思うだろうな?

 なぞかけ? と尋ねる。いや、そうではなくて、思考実験みたいなものだけど、と彼は言う。

 もし空が飛べなかったら、と言っても今既に飛べないから、今と変わらないんじゃないかな。そう言うと、彼は、ほんとに? と言う。尋ねるというより、確認をするような投げかけかた。

 周りが空を飛べるってことは、空を飛べる人用に世界が作られてるから、もしかしたら建物からエレベーターや階段なんかは無くなるかも知れないよな。一応、飛ぶのに疲れる人用に少し付けられてる程度で。交通機関も、きっと変わるだろう。何もかも、色んなものが自分の知ってる世界とちょっとずつ違ってくると思う。空が飛べる人用に造られた世界に、なるだろうな。その中で空を飛べない自分は、果たしてどう思うだろう?

 それは解らないな、飛べる人になったこともないし、飛べる人の世界に行ったこともないからな。私が言うと、彼が、うん、そういうこと、とうなづいた。ああ、そういうことか。彼が言いたいことが、ようやく解ったような気がする。

 今の自分が、今とちょっとだけ違う世界にいる。そんな簡単な状況ですら、おぼろげな想像をするしかできない。だろ? それがさ、生まれた時から持ってるものも抱えてるものも悩みも環境もすべて違う人の気持ちや状況、そう解るもんだろうかね。少なくとも俺には解らない。だから、想像し続けて、問いかけ続けて、コミュニケーションを取って埋めていくしかないんじゃないか、と、思う。ずっと、ゴールもなく。これは障害を持った人相手に限らずだけどさ。解らない。だから知ろうと接して、少しずつ埋めていく。解ったふりをするってのは、結局、無関心とそう変わらないんじゃないか。

 彼はそこまで言うと、大きくため息をついた。だからどうだってわけでもないんだけど。そう言って新しいビールの缶に手を伸ばす。おい、お前飲み過ぎだろ、と私も新しいビール缶を開ける。特に理由もなく、乾杯する。テレビの画面では遠くの国で飢餓に喘ぐ子供が映されていた。確かに可哀想ではあるけど。可哀想ではあるけど、と思う。彼はどう思うだろうか? 横目に観ると、彼は既に眠っていた。


 数日後、暑さがまだ残る空の下で、彼に女性を紹介された。数年前から付き合っていたらしい。
 彼女はほんの少しだけ人と違っていた。音を聴くのがあまり得意ではないという。簡単な身振り手振りと読唇と彼の通訳を交えて会話する。会話しながら、なるほどいつぞやの話はこれか、と得心した。

 彼女には唇を観られないように、彼に聴く。この子を背負って空を飛んでいくつもり?
 彼は首を横に振って笑う。そうしたいのは山々だけど、難しいな。でもま、一緒に地面を歩いて行くことはできるんじゃないかと思ってる。
 そう言うと、彼は笑った。彼女も微笑んだ。私も笑った。優しい空気だった。